◆ハワイアン・ギターの魔法使い | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。


<<モノゴトはバランス>>


モノゴトの法則のひとつに

需要と供給のバランスが

あるかと思われます。



「そうですネ!」




同じような商品が市場に出回りますと

モノの価値は下がります。



「そうですネ!」



でも、市場にそのようなモノが

極めて少ない場合、


そこに仮(かり)に*ニッチな市場

出来ていたりすると

どうでしょうか?



*ニッチ市場(にっちしじょう)とは?

市場全体の一部を構成する特定のニーズ

(需要、客層)を持つ規模の小さい市場のこと。


狭義には、その中でも商品やサービスの

供給・提供が行われていない市場とされる。

隙間市場(すきましじょう)ともいう。





「それは、ファンなら放(ほお)っては

ゆかないでしょうネ!」




するとモノの価値は上がってゆきます。



「なるほど・・・。」



「それが・・・。

今日ご紹介のブルーズ・マンに

関連があるのでしょうか?」





ある意味そうです。

ちょうど彼が60曲ほど

レコーディングしたらしいのですが、



その時期は1929年の世界恐慌の後

だったらしいのです。





「そうすると、その方も

過去ご紹介頂いた

ブルーズ・マンのように、


田舎に戻ったり、しばらく音楽から

遠(とお)のいたり

ていたのでしょうか?」




先ほどもお伝えしたように、


彼のスライド・ギターの分野では、

ある意味

寡占(かせん)状態が続いていたようです。




そこに彼がその分野での曲を

沢山持っていた。



「OH! それはグッド・タイミングでしたネ!」



そうです。それに・・・。

モチロン実力もありましたヨ!






<<ケイシー・ビル・ウォルドン登場!>>


今日ご紹介するブルーズ・マンは

ケイシー・ビル・ウォルドンです。




(今日ご紹介するブルーズ・マンは
ケイシー・ビル・ウォルドンです。)



膝の上で横置きにした

ハワイアン・スタイルでの演奏が

特徴的で、


”ハワイアン・ギター・ウイザード”

(ハワイアン・ギターの魔法使い)

の異名を持ちます。




時には、ロー・ダウンな

ブルージーなスタイルで、


また時にはアップテンポな

スウィングをタイミング良くプレイしたとか。



彼は演奏のスタイルが何であれ、

彼のスライドギターのソロは、


いつも素晴らしく、非常に感情的で、

シカゴ・ブルースに影響を与えたと

言われています。




☆'We Gonna Move To The Outskirts Of Town' (1936) ♪


☆ WPA Blues ? Casey Bill Weldon ♪


☆'Somebody Changed The Lock On That Door' (1936) ♪





☆ケイシー・ビル・ウォルドン CASEY BILL WELDON

本名:ウェル・ウェルドン

(1909年12月9日- ?1960)


アメリカ合衆国 アーカンソー州 パインブラフ生まれ。

アメリカのカンントリー・ブルース・ミュージシャン。


シカゴで働いた初期の偉大なスライドギターの先駆者。


”Casey Bill”は”Kansas City”がなまって

あだ名になったもの。



彼はソロ・アーティストとして、

そしてメンフィスジャグ・バンドのメンバーとして、


アップビート、ホンクムと

カントリー・ブルース曲を演奏した。



(メンフィスジャグ・バンド




彼は膝の上で横置きにしての

ハワイアン・スタイルで

ナショナル・スチールギター・フラットを

演奏した。



(膝の上で横置きにしての
ハワイアン・スタイル)



ケイシー・ビル・ウォルドンは

”ハワイアン・ギター・ウイザード”

として知られた。



20年代にメンフィス・ミニーと結婚して、




(メンンフィス・ミニー)



20年代後半に2つの影響力のある録音を一緒にした。




1927年にビクターでの彼のキャリアを録音する以前に、

ウォルドンはメディスン・ショーで演奏をした。




1927年ウェルドンは、チャールズ・ポークと

ビクターレコード用に


メンフィス・ジャグバンドになる

他のメンバーと

レコーディングをした。




その年の10月にビクターレコードは、

アトランタに、彼らを連れてゆき、

"Kansas City Blues"を含む数曲を

録音した。



1930年、それはビクターとの

メンフィス・ジャグ・バンドの契約の最後の年。

そこで20曲録音した。


1930年代の財政的な事故による

ビクターの破産直前に、


契約は1930年11月の

最後の録音セッションの後

メンフィスで終わったのだった。



ウェルドンは、ビクター、ブルーバードそして

ヴォーカリオンのために60曲以上をカットし続けた。


彼は、 Teddy Darby, Bumble Bee Slim,

 Peetie Wheatstraw, と

 Memphis Minnieなどの



(Teddy Darby





(Bumble Bee Slim)



(Peetie Wheatstraw)



レコードでアクティブな

セッション・ギターリストとして

活躍した。




1935年10月、ブルーバード・レコード用の

メンンフィス・ミニーの最後のレコーディングに、

ウェルドンは初めて彼女に同行した。


彼は、"When the Sun Goes Down, Part 2"

 "Hustlin' Woman Blues"

の2曲を演奏した。



彼は2曲の最も有名な歌でソロのヒットを勝ち取った。

それは、 "Somebody Changed the Lock on My Door"


そして"We Gonna Move (to the Outskirts of Town)"




1927年10月に、ジョージア州アトランタで、

ビクターのフィールド・レコーディング・

ユニットが訪問した際に、



彼は"Turpentine Blues"と呼ばれる

恐ろしい、心につきまとう歌を

含む2曲を録音した。




もしこの時、彼が2度と録音をしなかったのなら、

彼は永遠のままだっただろう。




彼がビクター用の多くの録音をしたとき、

後8年、もう一つのレコーディング・スタジオに

入らなかった。



 ウェルドンも Charlie Burse や

the Picanniny Jug Band

そして the Brown Bombers of Swingとプレイした。



(Charlie Burse



(the Picanniny Jug Band




録音されなかった時代の

多くのスライド・ギターリストから考慮して、

ウェルドンは、評価する熱狂的ファンのための

かなりの量の録音がある。



 Memphis Minnieとに離婚後、

彼はブルーズ・シンガーの

Geeshie Wileyと再婚した。



(Geeshie Wiley)



彼は1938年までにレコーディングを止め、

彼らはまもなく世間の目から姿を消した。



1960年代でのいつかであるとされるけれども、

彼の没年月日は知られていない。


           (ウィキペディアより抜粋)

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