長らくお休みしてしまったブログをやっとのことで再開(*^^)v
漱石のど真ん中! 東京
やってきました東大「三四郎池」!! 13年前に初めて東大の構内へはいった時は
なんだか畏れ多くて、駆け抜けるように早足で裏へ出て、竹久夢二美術館へと
急いだような気がする。が、今回は自分が年をとったせいか、漱石への親しみが
増しているせいか、ビクビク感はなく、堂々としている(笑)。


有名な赤門(旧加賀藩前田家の上屋敷の御守殿門)をくぐり

ぐんぐん行くと


安田講堂前広場では、犬に散歩をさせる人あり、幼稚園の園外活動あり、
晴天のもと、みんな自由な空気を楽しんでいた。


三四郎池

加賀藩主前田氏が赤門から池にかけての一帯の地を将軍家から賜
ったのは、大阪の役後のこと。園地を大築造したのは寛永15年(1638)。
「旧加賀藩上屋敷育徳園心字池」

夏目漱石の小説「三四郎」で、三四郎が初めて美禰子と出会うのがこの池の端だ。

(以下、『三四郎』より)
ふと目を上げると、左手の岡の上に女が二人立っている。女のすぐ下が池で、
向こう側が高い崖の木立で、その後がはでな赤煉瓦のゴシック風の建築である。
そうして落ちかかった日が、凡ての向こうから横に光を透してくる。

女はこの夕日に向いて立っていた。三四郎のしゃがんでいる低い陰から見ると
丘の上はたいへん明るい。女の一人はまぼしいとみえて、団扇を額のところ
にかざしている。顔はよくわからない。けれども着物の色、帯の色はあざやかにわ
かった。白い足袋の色も目についた。鼻緒の色はとにかく草履をはいていることも
わかった。もう一人はまっしろである。これは団扇もなにも持っていない。ただ
額に少し皺を寄せて、向こう岸からおいかぶさりそうに、高く池の面に枝を伸ばした
古木の奥をながめていた。団扇を持った女は少し前へ出ている。白いほうは一足
土堤の縁からさがっている。三四郎が見ると、二人の姿が筋かいに見える。
根津神社
東大周辺を散策した。旧岩崎邸洋館というのも見たかったが場所がよくわからず、
ウロウロするうち迷い込んだ根津神社…。

別段の期待もなかったのだが

つつじ祭り をやっていた。
4月中旬で見頃にはまだ早かったが、相当なボリュームあり、迫力ありで
堪能できた。平日だというのに、多くの老若男女が訪れていたのには驚いた。

さすがは東京だ。平日昼間から、若い人もこういうところへ繰り出すのだなー。

と、もう若くはない田舎者の私は思った。

わざわざ和服を着込んで訪れた妙齢のご婦人もあれば、
西洋人のカップルもあって、楽しさ満喫(*^^)vのご様子。

神社を出ると、焼きかりんとうの店や手作り小物の店が賑わっていて、
驚いたことに「さぬきうどん」の店に行列ができていたりした。
讃岐出身のわたくし、ちょっと覗いてみたい(列に並んでみたい)
気もしたが、何もここまで来てここへ入らんでも・・・と思って断念し、先を急いだ。

夏目漱石旧宅跡 を見学、

・・・といっても、何が見られるわけでもなく、この碑が建っているだけではある・・・(;O;)。
住宅地の中の路地横に、目印というか記念というか、どうにかこうにか建っている。

ロンドンから帰国した漱石が、明治36年から3年間住んだ家があった場所で、
この家で「吾輩は猫である」「倫敦塔」「坊っちゃん」「草枕」「野分」などが創作された。
その家は、愛知県犬山市の「明治村」に移築されている。
団子坂
文京区千駄木2丁目と3丁目の境を東へ下る坂が団子坂だ。
下りきった先は谷中へと続く。漱石の時代の団子坂は、道幅が2間半
ほどと現在よりかなり狭く、菊人形で賑わう場所であったようだ。
「三四郎」では、
『一行は左の小屋へ這入った。曽我の討入りがある。五郎も十郎も頼朝も
みな平等に菊の着物を着ている。但し顔や手足は悉く木彫りである。』
と菊人形小屋へ入る場面が登場する。

団子坂は、漱石の小説にしばしば登場するほか、江戸川乱歩の「D坂殺人事件」、
森鴎外の「青年」、二葉亭四迷の「浮雲」などにも出てくるらしい。
旧万世橋付近
関東大震災で被災した万世橋駅

二代目駅舎と駅周辺

現在

神田と御茶ノ水の間くらいにあった旧万世橋駅付近。
漱石の「こころ」では、
『私はとうとう万世橋を渡って、明神の坂を上って、本郷台へ来て、
それからまた菊坂を下りて、しまいに小石川の谷へ下りたのです。
私の歩いた距離はこの三区に跨がって、いびつな円を描いたとも
いわれるでしょうが、私はこの長い散歩の間殆んどKの事を
考えなかったのです。今その時の私を回顧して、何故だと自分に
聞いて見ても一向分りません。ただ不思議に思うだけです。
私の心がKを忘れ得る位、一方に緊張していたと見ればそれまでです
が、私の良心がまたそれを許すべきはずはなかったのですから。』

ニコライ堂
御茶ノ水駅から徒歩5分、ニコライ堂を見上げる。 漱石の「それから」には
ニコライ堂での復活祭の話が出ている。『両人は其所で大分飲んだ。飲む事と
食う事は昔の通りだねと言ったのが始りで、硬い舌が段々弛んで来た。
代助は面白そうに、二、三日前自分の観に行った、ニコライの復活祭の話をした。
御祭が夜の十二時を相図に、世の中の寐鎮まる頃を見計って始る。参詣人が
長い廊下を廻って本堂へ帰って来ると、何時の間にか幾千本の蠟燭が一度に
点いている。法衣を着た坊主が行列して向うを通るときに、黒い影が、無地の
壁へ非常に大きく映る。――平岡は頰杖を突いて、眼鏡の奥の二重瞼を赤く
しながら聞いていた。』

井上眼科
漱石は24歳の時、トラホームの治療に井上眼科へ通っていたのだが、そこで
出会った若い女性が、色白でお年寄りに優しく、漱石は大変気に入ったらしい。
「ゑゝ、そうそう、昨日眼醫者へいった所が、いつか君に話した可愛らしい
女の子を見たね、-銀杏返しに竹なはをかけて-天気予報なしの突然の邂逅
だからひやっと驚いて思はず顔に紅葉を散らしたね 丸で夕日に映える嵐山の
大火の如し」と、正岡子規への手紙に書いている。
その井上眼科が、今もこうしてここにある(*^^)v。御茶ノ水駅近く。

東京物理学校 (現東京理科大学)
近代科学資料館

飯田橋駅を降りてすぐの東京理科大学。
「坊っちゃん」の主人公が卒業したのが、東京物理学校。現在の東京理科大学にあたる。

「近代科学資料館」を見学。入館無料。頼めば学生が展示品ガイドをしてくれる。
どこかの高校生の一行が見学に来ていて、丁寧に説明を受けていた。


何十桁もある長~い算盤や、盲人用算盤、ロール算盤、
電子卓上計算機への発展など興味深い展示あり。

指導用と思われるでっかい計算尺も。


神楽坂
漱石が子どもの頃から親しんだ神楽坂界隈は、漱石さまざまな
作品に登場する。「それから」では、
「神楽坂上へ出た時、急に眼がぎらぎらした。身を包む無数の人と、無数の光が」
頭を遠慮なく焼いた。代助は逃げるように藁店を上がった。

美千代の頬に漸く色が出て来た。 (中略) 藁店の上を上がり掛けると
ぽつぽつ降り出した。傘を持って来てなかったので、濡れまいと思って、
つい急ぎ過ぎたものだから、すぐ身体に障って、息が苦しくなって困った。」

神楽坂でランチヽ(^o^)丿
平日のお昼。オフィスワーカーらで賑わう神楽坂通りを歩く。あまり高く
なさそうなタイ料理の店で、スパイスの効いたタイムランチを注文した。

久々の東京ぶら歩き(*^。^*)で、
ときに「先生」ときに「金ちゃん」と漱石に語りかけながら、
明治の気分に浸った(^O^)。東大目前に宿をとり、ゆかしい
雰囲気の「ルオー」という喫茶店でコーヒーを飲んでみた。

ホテルの歯磨き粉とスリッパの中敷がいずれも愛媛県産品だったのには驚いた。
歯磨き粉・・・喜多郡内子町
スリッパ中敷・・・四国中央市


がんばってるやん!!
今回の旅のガイドブック
「漱石と歩く、明治の東京」

これを読み込み、セクションごとに掲載されている地図をコピーして
接ぎ合わせて「漱石の東京」全体像をイメージした。正味1日半しか時間が
取れなかったので、行きたくても行けなかったところが多くて心残りだ。
でも「明治の東京」は逃げていかない。また次に楽しみを残しておこう!
