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神の使者から『奇跡講座』に出会って、十数年。
日々をACIMに過ごそうと、聖霊と一緒に訓練中です。

拙著『ACIMで行こう!』『 ACIMで行こう!2』ともに、 紙の本のAmazonでの新品の取り扱いがなくなりました。 在庫はございますので、下記HPをご確認ください。


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二十代のころ、だから今から30年ぐらい前の話ですが、奈良に一人旅をして、最終日に興福寺の五重塔を水面に映す猿沢池のほとりで、

「……ここに住めないかな」

と思ったことを、なぜか鮮明に覚えています。

そしてなぜか、

「無理無理」

と、一瞬で却下したことも覚えています。

一人っ子だってこともあるんでしょうけれど、両親を置いて別の土地に住むということが、選択肢にもならなかったのです。

今思っても不思議な思い込みですが、結局、地元の人と結婚し(離婚しちゃったけどさ)、実家で二世帯住宅でくらし、父と母の老後に付き添う人生になりました。

自我はそれが心地よかったんでしょうね。

コンフォートゾーンってやつね。

 

 

先日、奈良に行ってきました。

ここ数年、仏教に興味を持っていたので、日本仏教の始まりの都を改めて見てみたいな、と思いまして。

で、ぽんぽんも誘ってみました。

「奈良いくけど、いく?」

「いく」

というわけで、おばあちゃんにショートステイをお願いして、ぽんぽんと一緒に奈良旅へ。

行きに観光特急『あをによし』に乗ったくらいで(めっちゃたのしかった!)、あとは渋く史跡と寺を巡る旅でしたが、最終日に因縁の猿沢池に行きました。

 

10年一昔、30年ですから三昔ですが、なんだかすっかり整備されて、水面のシンボル五重塔は工事中だし、スタバなんかもあったりして(スタバはないだろう、スタバは……)、

あれえ、こんなだったかなあ……」

と、思わないでもなかったです。

が、改めて当時、ここで、

「無理無理」

と、自分の気持ちをためらいもなく一瞬で握りつぶしたことを思い出して、

「人生って自分が思った通りになるんだよね」

ということについて、ちょっと思索と感慨に耽りました。

 

お昼には奈良駅を出ないといけなかったので、大仏様をサクッとお参りして帰る予定で(東大寺の大仏は毘盧遮那仏で、鎌倉の大仏は釈迦仏だって知ってました?大仏って大きな仏って意味で、大仏っていう仏はないんですよ!)、

「(目の前の)興福寺は寄らないの?」

とぽんぽんに聞かれたのですが(今回主導権は私です)、

「時間ないから今日はパスするわ。ぽんぽん、去年興福寺見たんでしょ?」

「うん」

ぽんぽんは去年、吉野千本桜を見るために、奈良を通過したのでした。

 

で、興福寺の境内を突っ切る形で東大寺に向かいました。金堂や国宝館を横目で見ながら、ああ広々と整って、なんとも奈良的な綺麗なお寺だなと思ったのでした。

 

 

最近、自由意志について色々考えているんですが、この猿沢池での、

「無理無理」

は、見事なまでの自動思考でした。

面白かったのはなぜかそれを客観的に見ている視点があったことですが、私はなんでそう思い込んでいたのか、なぜそこから抜け出せなかったのか、いや、抜け出そうとも思わなかったのか、今でも不思議に思います。

そしてもし私に自由意志があるなら、こんな自信満々な否定はないだろうな、とも思います。自由なら、少しは迷うんじゃないかしらね?

 

そんなことも含め、概ね自由意志はないということは納得してるのですが、コース的には、聖霊を選ぶ、というささやかな意欲だけは自分の意志で持てるはずで、つまりここだけは自由意志が有効、ということになっているようです。

実際、聖霊を選ぶ(というか、自我を選ばない)という決断はたまにはできる、という実感もしてるんですが、まあそんなこといったら、私は猿沢池で、「ん?」

と思った、というくらいの微細な経験を除けば、ずっと、自分の人生は自分で決めてると「実感」してたわけで、全く当てになりません。

 

で、ここだけ自由意志有効、という話はどう説明つくのかなあというところで壁に当たってしまって、どうしたもんかなあ、と思って部屋の本棚を見回していたら、『唯識入門』という本がありました。

唯識はあまりに複雑で、絶対手を出すまいと思っていたのですが、この本はぽんぽんが去年奈良に行ったときに、なんか旅行ハイで買ってしまって、

「読む余裕がなさそうだから、よかったらどうぞ」

と、私に貸し出されていて、いや、私も今のところは……と、本棚に突っ込まれていたのです。

「んー、まあ、どうせ、読めないだろうけど、せめて何かのヒントに……」

と、思いながら手に取ってみたら、その本は大変わかりやすい本で、あー、そうか、唯識ってそういう構造なのかと感動して、遅読に悩む私としてはかなりのスピードで読み進めたのですが、これはひとえに著者が、唯識を息をするくらいに自然なものとして会得してるからなんだろうなと思って、

「誰が書いたんだろう?」

と、著者紹介を見たら、多川俊映とおっしゃる興福寺の貫首さんだったのです。

 

 

「え、なんで興福寺?」

興福寺といえば、藤原氏と関係が深くてかの有名な阿修羅像初め国宝がわさわさあって、みたいな観光知識はあったのですが、こちらが法相宗だということも、法相宗の教えが唯識だということも、この時まで知らなかったのでびっくりしました。

で、ぽんぽんに、

「この本、どこで買った?」

と聞いたら、

「興福寺」

だそうで、まあ、そうだよね。

 

三十年前に興福寺を目にしながら、

「ここに住めないかな」

なんて、なぜか急に思ったことや、それを今でも鮮明に覚えていること、

「唯識だけは手を出すまい」

と頑なに思ったこと、そういいながらなぜか唯識が気に掛かっていたことや、その本が一年以上本棚に刺さっていて、それを猿沢池から帰ってきたタイミングで開くことになって、興福寺って実は唯識のお寺でした……など諸々思うと、

「これは絶対、ただの偶然じゃないだろ」

と、阿頼耶識だの末那識だのがさらに気に掛かってきて、

「これは興福寺に行かねば……」

などと呟きながら、また奈良に行く口実にしています。

行きたいとこはいっぱいあるからね♪

 

で、肝心の聖霊を選択するという自由意志の話は、いくらその唯識の本がわかりやすかったとは言え、一冊読んでわかるものでもありませんでした。

唯識三年、倶舎八年、と言うそうです。

深っ!

 

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