2010年から、なんやかんや気づいたら16年近く占星術に触れ続けている。
心のことについては、2018年の終わりからなので、約8年になるね。
一時期、カウンセラーになろうと考えたこともあったし、占星術については鑑定を専門にしようと考えたこともあったんだけど。
生業とするにはどこかしっくりこず、
かといって関心がなくなるわけでもなく、
興味の赴くままに、占星術や心のことにお金も時間も費やし、
「私はどこに向かっているのだろうか」と不思議に思っていたんだけど、
ようやく、目指している方向がどこなのか、朧げに見え出してきた。
そう、私は、
無意識のうちに自分の中に封印し続けてきた
『淋しい』という感情を感じるためにやっていた、ということに気づいた。
灯台下暗しだが
そこは、単に感情を感じ切るとか、そんなことではなく。
長い間、うちの家系、
祖母、母、姉、私にすべて共通している思考概念に結びつくのだが。
(スケールが大きい笑)
なので、
感情に呑み込まれることなく、
かといって、
感情を遮断することもなく、
安心して『淋しい』をそのまま深く感じるために。
それを得るためのスキルが、
占星術や心のロジックを学び続けたことだったんだなと、ようやく合点した。
まー、とにかく、
それだけ私にとっては、『淋しい』という感情は、大きな、大きな山だったのだ。
『淋しい』
感情としてはシンプルだが、
そこには、
絶望、
孤独、
やるせなさ、
理不尽なことへの憤り、
運命に対しての不条理さ、
たくさんのものが絡み合い、派生して、心の中で浮上していた感情。
今までは、
それを表に出すことはせず、
心の中で泣いていた。
そこにあるのは、
悲しみではなく、淋しさだった。
慰めてほしかった。
助けてほしかった。
弱音を吐きたかった。
いやいや、ちょっと待てよ?
散々、周りの友達や、
数々のカウンセラーやカウンセラー仲間に、
弱音や助けを吐き出して、慰めてもらいましたよ。
だけどね、それはまだまだ序盤だった。
自分の奥の奥の奥にある本音は出せないのよ。
というか、出ない。
だって、本人さえも気づいていないから。
私にとっての占星術は、自分の内側に派生する感情を受け入れるものであり、
心の学びは、心の感情の存在を肯定するものだった。
要は、感情をなかったものにしない。
自分の捉えグセで派生する感情と、
心の叫びとして出てくる感情。
そこを見極めるために、これまで必要な年月だったのだ。
このように、自分が無意識のうちに学びに没頭してきた意図を認識でき、
ようやく、自分の感情をただ感じるためのゾーンに入ってきた。
感情。
ずっと面倒くさいと思ってた。
コントロールしたくてもコントロールできない、厄介なものだと思ってた。
感情的になりたくなくて、
人間関係でも自分の気持ちを誤魔化しながら生きてきたし、そのように言動や振る舞いをしてきた。
その心の癖を、ようやく真正面から受け止めるようになると、
実は、
感情だけが厄介なものではなく、
感情も、意思も、行動も、全部同列に存在しているんだなと、
気づいてきた。
感情だけが厄介なものではなく、
意思が強いから良い、弱いからダメとかでもなく、
行動力があるからすごい、ないから怠け者笑とかでもなく。
何というか。
必要なことは、勝手にすでに起こっている。
だからこそ、
ただ感じればよかっただけだったんだ。
うちの女系家族に代々受け継がれている思考概念。
助けてほしかった。
弱音を吐きたかった。
慰めてほしかった。
そういう願いが出ても、
無意識のうちに、口グセとして、躾として、
当たり前に
代々、受け継がれてきた孤独感から、
自分で抱えながら、意地を張って踏ん張ってきた。
でもそこには、副産物として派生した『淋しさ』が溜まっていっていた。
そこを感じていく。
苦しみ、悲しみ、切なさ、刹那さ、たくさんのやるせなさの行き着く先にある『淋しさ』。
ただ感じる。
そして、
そこで見えてきたのは、
すでに身近な人が助けてくれていた、という事実。
……………。
そこを、見落としてた。
見えてなかった。
見えてなかったからこそ、
「自分だけが……」という考えに捉われ続けてたこと。(見えるわけないよね)
自分で踏ん張るために
『淋しい』を感じるのを避けて、
自分の感情に蓋をして、
無理やり意思と行動力でがむしゃらにやってきたからこそ、
その落とし穴にはまっていることに気づかなかった。
自分一人でやってきたという自負心を持ち続けるために。(ときには傲慢さ、頑固さになる時もあったが)
とにかく、見えてきた。
すでに、身近な人が助けてくれていること。
何もしていないから、とかじゃないんだよね。
身近な人の『存在』が、すでに自分の力になっていたこと。
存在だけで、どれだけ心の支えになっていたか。
当たり前と思っている人たちほど、
日常の些細な行動の一歩を出す助けになっていることを。
そうやって人は生きていること。
私はこれからもっともっとそこの事実に
驚かされるだろう。