先日、いとこの四十九日法要に出席してきました・・・・そこで、またこの傘もちの風習が行われました・・・・・
5年ほど前に叔父の四十九日の時に初めてこの風習を知りました・・・・・
諸説あるらしいけど・・・・・今回は曹洞宗でした・・・・
亡くなってから一日一個のお餅をお供えにし、それを四十九日続けるという
そして肉体の部分に切り分け無事に冥途へ向かえるように・・・・
うちの実家は浄土真宗ですが・・・・この風習はありません・・・・
そしたら、今回のお坊さんがそのような事を話されていました・・・・
曹洞宗は、この四十九日までの期間を特に大切に考えていますと・・・・
色んな宗派があり、いろんな考えがありますが、他の宗派もこの傘もちの風習があり、四十九日の間のお参りを重要視してます・・・・と・・・・・
でも浄土真宗さんだけは、死んだら即成仏という考えですって言っていました・・・・
なので、四十九日という事に重きを置いていないので、四十九日の法要はあっても、法要での向かう対象が違うと言っていました
ちょっとその言い方というか口振りにハテナ?を感じましたが・・・・・よその宗派の事をそんな風に話すのかとお坊さんとしての姿勢に・・・・・
まあそう言えば・・・・うちの父親の時の法要の時・・・
親鸞聖人の〇〇を読みます・・・・って言って、
親鸞聖人の曼荼羅のような、物語かオペラの様に、ちょっと風変わりに聞こえるようなお経でした・・・・
調べてみると・・・・
他の宗派は四十九日は故人のためのものと考えられているけど、浄土真宗の場合は残された遺族のためのものと考えられているらしいです・・・・
つまりは、ご遺族が四十九日の間の中で故人の事を偲びつつ、仏様の教えを(念仏の教え)について噛みしめるための期間だということでした・・・・・
世の中の人って、新興宗教の事は安に批判したりするけど、先祖代々の宗教ってすんなりお祀りしたりしますよね・・・・・
でも先祖から引き継がれたものだから何も考える事なく、ただただ決められたお経を読んだり・・・・・
意味を知りだすと・・・・「それってどういう事なのかな?」とか・・・・
人間てみんな同じなのに、なぜ選んだものによって違うのか・・・・・
ましてや自分の意思で選んだわけじゃないのに、他と違う考えで儀式が行われていいのか・・・・・
自分はどうして欲しいのか・・・・・
いったい自分は死ぬという事をどう考えているのか・・・・
死んだ後の世界はどう考えているのか・・・・・
全てが宗派によってどうして違うのか・・・・・
そんな事考えないのかなって思います・・・・
仏教だけでなく、神道も、キリストでも違いますよね・・・・・・
でも、元の元、最初と言えば同じだったやろうに・・・・・・・
人それぞれ、弔う事に・・・・・亡くなった肉体を対象としているのか、魂を対象としているのか、思いを対象としているのか・・・・・
私自身は自分の哲学を構築する上で、そんな宗教の事も考えました・・・・・
いつも話している考えの中で、「魂と心と体」の全てを対象に考えまくりました・・・・
何が正しいとか、どの宗教が正しいとかという事ではなく・・・・・
もっと広く、大きく・・・捉えて考えました・・・・
考えるきっかけがあったので、そこから始まったように思います・・・・・
この曹洞宗や浄土真宗の違いの様に・・・・・
自分達が先祖から当たり前に引き継いできたものの・・・・・中身を何も知らなかったという事を知る事も・・・・
「違う考え」があるという事を知る事の方が大切だと思います・・・・・・
そして、それから・・・・・・「自分の考えを持つ」という方向へ進んでいく事が重要ではないでしょうか・・・・・
この曹洞宗の四十九日が故人のため、浄土真宗が遺族のため・・・・と聞いて・・・
自分ならどう思うか、考えるか・・・・・
肉体を火葬して炭素として燃えて行った事をどう考えるのか・・・・・
きっと身内とか、身近な人が亡くなった時が考えるきっかけの時なんでしょうね・・・・・
誰しもが必ず死を迎えるのに、その事を知らないままというのはどうなんでしょうね・・・・・
どんなお坊さんに弔ってもらうのか、どんな宗派を信じて死の世界に向き合うのか、自分の意思を確認していくともっとこの世を生きるのも楽になれると思うんだけどね・・・・・・