同じことをしても、ハマる人と程々にたしなんでやめられる人とがいるのはどうしてだろう?

20年近く前、人気コメディアン兼ミュージシャンが、覚醒剤と盗撮で逮捕された。

たった1日で彼を取り巻く世界の全てが変わっていったのは、ものすごく衝撃的だった。

仕事も順調で、いつも明るく楽しく面白く、というイメージだっただけに、心底驚いたのを覚えている。


心に孤独を抱えたり、発達障害や精神障害があったり、アダルトチルドレンと言われる人は、嗜癖に耽溺しやすい傾向があり、健全な人と比べると、あらゆる依存症になりやすいらしい。(あくまでも傾向の問題で、全員がそうなるわけではない。) 

衝動的で快楽に対して抑制が効かない発達障害的特性と、精神的欠乏感とか、愛情飢餓感とか。

愛されない悲しみと、親にどんなに理不尽な支配的扱いをされて傷つけられても、生きるために謝るしか出来なかった無力な子ども時代の鮮明で惨めな記憶とか。

身勝手すぎる親に対する憎しみと怒り、その遺伝子を確実に受け継いでいる絶望感。

集団に馴染めない疎外感、異質感。

重い荷物の全てを自分一人で肩に背負い、安心して寛げる居場所が見つけられない。

そんな荒地のような心のひび割れに、あらゆる種類の快楽=現実逃避=依存物質が沁みて、その間だけ、心が解放されて軽くなるからなのじゃないかと個人的には感じている。

でも、割れているから、どんなに注いでも足りない。

機能的な家庭で育った場合だと、一時的に薬物を使用しても、わりあいハマることなくスパッとやめられるのだそうだ。

お酒も依存症になる人と、ならない人がいるし、ギャンブル、食べ物、暴力しかり。


嗜癖に耽溺しやすい人は、窒息しそうな生きづらさを感じている。

依存対象が薬物や性犯罪、殺人など、反社会的行動である場合は、嗜癖に耽溺するための閉鎖的環境になり、さらに歯止めが効かなくなる。

歳を重ねるにしたがって、若い頃と違い、家族や仕事への果たすべき責任が増す。

常識的には、それらを全てドブに捨てる危険を冒してまで、友人同士で反社会的行動を楽しむことを優先しなくなる。

年齢によって、大切なものの優先順位が変わるのだ。

それでも辞められない、辞めたくない自分は、隠れてでも依存対象に依存する必要がある。


やがて、バレなかったことが、その体験を繰り返すことで、まるで練習のように成功体験の積み重ねになる。何も問題が起きていないのに、やめようとは思わない。むしろ捕まるヤツのワキが甘いか、運が悪いだけ。

同じ秘密を共有している周囲の人間とともに、社会的にさらに孤立する。


現実社会からの息抜きが、過度の現実逃避となり、さらなる孤立を増長させる行為となるなんて、やり切れないけれど、心に抱えている孤独や辛かった思い、社会的責任や重圧が、自身にとって重ければ重いほど、解放されたいと願うものなのかもしれない。


そんなことを考えさせられた、衝撃的なアーティストの逮捕のニュースだった。


今、拘置所の中で、何を思っているのか想像もつかないけれど、自分が活躍していた日本の社会は法治国家であり、個人の主義、思想に関わらず、そこには例外なく遵守すべきルールがあったのだと思い知らされたかもしれない。

少しは、ホッとしただろうか?

それとも、まだ押し寄せる現実のうねりについて行けず、ぼんやりと悪い夢をみているような気分だろうか?


才能のある人がしのぎを削る浮き沈みの激しい世界で、表に立つ自分と素の自分を使い分けながら、何にも依存せずに第一線を走り続けるというのは、とても難しい事なのだろう。