歩むべき道を歩む。悟りと平安、真我への道。

歩むべき道を歩む。悟りと平安、真我への道。

誰もが得られる、心の平安について、
探求した結果を、書き綴って行きたいと思います。

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この物資世界は、流体のようだ。
拳を水の中に突き刺せば、固い拳は水に食い込む。
この時水は流体のように形を変える。
刃物が体に突き刺されば、固い鉄が肉体に食い込む。
この時肉体は流体のように形を変える。
固い物に対して、柔らかい物は流体のように形を変える。

人生においても、この原理はあてはまる。
しかし、人間は自分の意思によって、柔らかい物が固い物を跳ね返せると考えている。
それが力みを生み、苦しみを生じさせる。
自分の肉体を流体のように意識し、外界の影響により流体が変化して行くそのさまを、かき乱さず無為にただ眺める事は、疲れた精神を回復させてくれる。
考える事、信じる事、それらは誤った方向へ進ませる。
静かに知る事、それが源へ引き寄せる。
花粉症で目が痒い時、目をかくとかいている時は気持ちがいいが、かき終わった後に余計にかゆくなったり、目を痛めたりする。
結局の所、最善の対応方法は何も行わない事だ。

これは精神的な問題にもあてはまる。
問題が起きた時、その問題についてあれこれ考え、思い悩む事は花粉症の目を手でかくのと同じ事だ。
問題を認識するのは良い(目が痒いと感じる事は問題では無い)、その問題について精神的に納得させようとしたり解決しようとしたりする行為(目を手でかく行為)、それが問題を長く続かせる(それが目を余計にかゆくさせたり、目を痛めたりする)。

花粉症に対しての無抵抗な肉体的な態度は、精神的な無為の態度を修練する事に役立たせる事が可能だ。

思考や肉体も風景(世界)の一部だ。

私達が個人として生きる時、
風景と思考を分離し、風景の中で奮闘する思考として生きている。
風景の中で、私の肉体だけが遺伝子的に成長して、そして年をとって行くと感じている。

この認識を、思考や肉体が風景の一部であるかのように観照する。
そうする事で、私が行為者であるという感覚が薄らいで行く。
必ず、今という物がある。今から外れた事は無い。
朝起きた時に感じた今も、たった今感じている今も、同じ性質の物で、子供の頃の今も、老人になった時の今も、同じ今を感じている。
今は絶対的で不変的であるとするならば、不変的な今の中で世界がただ動いている事になる。

しかし思考は、この今を、過去から未来への時の流れの中点として認識している。
今を過去と未来の狭間にある物のように。
それは世界の中に今が存在しているという間隔に陥っている。

マスター達は、意識の中に世界があると言っている。
(意識と今は同じ意味)
しかし、それを思考で掴もうとしても上手く行かない。
思考の観点からは、どうしても世界の中に今があると認識してしまう。
今の中に世界がある事を見る為には、それを考えてはいけないという事だ。
おのずと沈黙するしかない。
肉体的な痛みを体験した場合、その痛みがどの部位で発生したかという場所的な思考が付随して発生する。
この痛みは、頭で発生したのか、肩で発生したか等。

痛みの体験と、発生場所の思考は別物であるという事。
この事に無意識であると、肉体的な痛みを強く感じる事となる。

痛みを純粋な気付きして体験し、その痛みについての場所的な情報を付与しなければ、痛みは軽くならないだろうか。

痛みと、場所情報を切り離す事によって、
痛みが、気付きの場へと導いてくれる。
どうやっても今から振り落とされる事が無いのが真理。

過去と未来の思考にはまって、今を見失った状態にあっても、
今から逸脱する事は絶対にありえ無い。

しかし私達は、今に在る事を求めてさ迷う。

どのような事があっても、今から逸脱する事が無いという理解。
そして、そこから来る信頼感。
この信頼感が大切であり、この信頼感が失われると、今を求めてさ迷いだす。

今からはどうやっても逸脱出来ない、過去を振り返ってもこれは納得出来る。
これが絶対的な真理。
だから今にある為に、何かをする必要は何も無い。

だから信頼すればいい。
でも努力して信頼する必要は無い。
この気付きが自然な状態になれば、信頼は向こうからやって来る。
何か問題が起きた時、それよりも少し良い状況と、悪い状況が起きた可能性も考えられる。
例えば、5000円損をしてしまって落ち込んでいる場合、4000円損する状況と、6000円損する状況の中間の出来事が発生したと考える事が出来る。
5000円損をしてしまった人が、損害は4000円で済んだかもしれないと考えれば、さらに落ち込むが、
6000円を損していた可能性を考えれば、落ち込みは軽くなるかもしれない。
どんな出来ごとも、それより良い状況と悪い状況の中間、それより多い状況と少ない状況の中間、それより長い状況と短い状況の中間、それより○○○の状況と□□□の状況の中間の出来ごとが発生している。
この観点が無ければ、意識は5000円を損した事にだけにフォーカスされる。
意識がフォーカスされる事により、それは現実味を増し、5000円を失った苦しみを味わう事になる。

ここで書いたか事はすぐ検証が行える。
例えば誰かが大きな声で電話をしていて不快さを感じた時に、その声より小さい状況と大きい状況の中間の状況が発生していると、ただちに観照すれば不思議と不快さが軽減される物である。
しかし、その電話の声の大きさにだけにフォーカスすれば、それがより現実味を増し不快さはなかなか消えない。

いかなる出来ごとも、この方程式はあてはまる。
例えば何かに執着して苦しんでいる時でさえも、それより強い執着と弱い執着の中間の状況が発生している。
いかなる出来ごとも、この方程式を使って解いていけば、その解は無執着あり、世界が幻想であるという事の理解の助けになる。
調子が出ない時や、お腹が空いた時、そこには小さな苦しの感覚が存在する。

苦しみを感じたのならば、「その苦しみは、無数にいる人の中で誰に発生しているのか」という問いを行えば、その問いの答えは「私に発生している」となる。
そこで「では、私とは何か」という問いに移行出来る。

この「私とは何か」という問いは、意識を内側に向ける呪文となる。
この問いを行わなかった場合、意識は苦しみを解消する方向を向きだす。
その方向とは外側であり、世界が幻想であるならば、その幻想にどっぷりはまる事となる。

苦しみを使って意識を内側に向けられるのであれば、苦しみにも存在意義はある。
逆に、苦しみを意識を内側に向け手段として使わなかったのであれば、意識を内側に向けさせる為に、苦しみはより大きくなるのではないだろうか。
であるならば、小さな苦しみを利用して意識を内側に向ける事が賢明だろう。
無機物も含めて全てに対して公平である時、そこに私は存在しない。
肉体への便宜によって私が生じる。
人間ばかりを相手にしてはいけない。
究極の公平さの中に、神、真我が存在する。