2000年の年末

自営業の父の仕事は底をついていた

父は東京まで行き

消費者金融で金を借りてきた

 

そして

父親は母と離婚して

自分は生活保護を受ける

そうすれば

お前たちに迷惑がかからないから

と言った

 

私は父に頼まれて

市役所に離婚届を貰いに行った

 

私は商売がうなくいかなくなった父を

情けなく思っていた

 

惨めなオヤジだと

 

やけに年をとって小さくなった父が

自分たちから離れていこうとする姿が

死に目を見せないで隠れる動物のように見えた

 

しかし

父の言うとおりにしたら

惨めなオヤジを捨てる気がして

両親の離婚には賛成しなかった

羽振りのよい父だけを良き父とするならば

あまりにも不人情だと

 

2001年1月

父親は歩いて5分ほどの

個人病院に入院した

父には胃潰瘍と言っていたが

本当は”胃がん”だった

 

当時

主治医だった院長は

”癌”と言うのは酷だから

胃潰瘍と言っておきましょうと母に告げ

未告知のままだった

 

その頃

告知しないことは

まだ一般的で

看護学校の卒業を控えた私でも

医者が言うのなら

告知しないほうがいいのだろうと

疑うことはしなかった

 

成人式が終わったあと

その個人病院に行き晴れ姿を見せた

父親は照れくさそうに笑っていた

 

胃がんはかなり大きく

みぞおちに硬いしこりを作った

西田敏行のように丸っとした父が

あっという間に瘦せこけた

鎖骨下に中心静脈カテーテルを入れ

栄養を補うだけの入院生活だった

 

当時の病院は3か月ルールというのがあって

それ以上の入院はできなかった

院長は「自宅が病院の近所だから診にいくよ」

と言ってくれたので

退院することになった

 

しかし

どうやって父を自宅でサポートしていいか

まったく分からなかったから

ナースステーションにいた師長さんに

私は声をかけてみた

 

「点滴を置く台って

どうしたらいいんですか?」

 

「私が家でできることは?」

 

と。

 

その師長は面倒くさそうに

『点滴台?・・・。

血圧でも測ってみたら?』

返してきた

 

私が血圧計は持っていないと言うと

『看護学生で血圧計も持ってないの?』

飽きれた顔

 

当時の看護学校では血圧計は

病院で借りていたため

個人では持っていないのが普通だったが

これ以上話す気になれず帰ってきた

 

師長と話したら

胃がんの父がいる私が

なんだか

とっても

惨めに思えて

泣きそうになった

 

2001年3月から在宅療養に移行した

点滴台は病院の事務さんに依頼して

特別にレンタルできた

 

母が毎日高カロリー輸液を

薬局までもらいに行き

 

私が点滴をつないで

ポタ・ポタ・ポタ

滴下を合わせてから

保健師学校に行った

 

点滴の落とし方は教科書で復習したが

実習で点滴をやらせてもらったのは数回で

恐る恐るクレンメを動かした

 

私しか高カロリー輸液を扱える

家族はいなかったから

やるしかなかった

 

しかし

点滴は予定通りに投与はできず

学校から帰宅し

たくさん残った点滴を見つめては

不安になった

 

「なんでうまく落とせないだろう・・・」

泣きそうになった

いや

ほぼ泣いていた

 

でも家族を不安にさせたくないから

何ら問題はないという風に堂々と振舞った

 

院長は退院後一度も父の元に

来ることはなかった

 

来る気がないなら

最初から

「自宅が病院の近所だから診にいくよ」

なんて

言わないでほしかった

 

この頃、訪問看護があったのか

私も家族も知らなかったから

在宅療養の不安を聞いてくれる専門家は

誰一人いなかった

 

在宅療養が始まり1か月が経った頃

父親が洗面器に大量に吐血した

みるみるうちに顔色が青白くなった

夜中の3時を回っていた

 

父親は洗面器に溜まった血液を

じっと見つめていた

 

母は私に

『urara、はやく救急車を呼んで』

『でも救急車のサイレンを

鳴らさないように言って』

『近所の人にあの家に救急車が来るって

思われるのが嫌だから』

 

こんな場面でサイレンを鳴らさないなんて

できるわけがないだろう

思ったが

懇願する母の様子を見て

試しに要望してみた

 

案の定それはできないと

・・・

 

今となっては

母親がへんてこな要望を口走った理由が

分かるような気がする

 

救急隊員が3人ほど自宅に到着した

隊員が私に

『病気は何ですか?』

と聞いた

 

私はその隊員に小声で

「実は告知していないんです。胃がんです」

と言った

父は既に意識がなくなりかけ

目がうつろだった

 

救急隊員はメンバーに

『Magen cancer』

言ってくれた

 

私の中でこの救急隊の優しさが

在宅療養の中で唯一感じた

専門職の優しさだった

 

母が救急車に乗り

私はその後を追いかけた

走っていったのか

兄弟の車かは覚えていなかった

 

先月まで父が入院していた個人病院に到着し

ナースステーション横の部屋に入れられた

 

当直の医師が眠気の残る顔で

白衣に袖を通しながら

走って入ってきた

 

医師は看護師に「挿管の準備」と言い

看護師はそばにある救急カートを

ベッドサイドに向けた

 

父の顔は薄暗い部屋の中でも

血の気の引いた土色と分かり

眼球は天井を見据え

口唇はぽかりと開いていた

 

その光景は

子どもの頃

ビデオデッキを1秒ごとに一時停止して

遊んだ時のように

一瞬一瞬が止まったりスローで動きだしたりと

不思議な光景だった

 

私は

父親はもうこれ以上生きることはない

分かった

 

だから

私は咄嗟に

「挿管はしないでいいです」

と言った

 

医師は

『しなくていいんですね?』

 

私はしっかり頷いた

 

そして

心電図の波形が一直線になり

死亡確認となった

 

その時も私は涙を流していなかった

 

死後の処置の準備をする看護師に

私は「一緒にさせてもらっていいですか?」と伝えた

看護師はただ頷いたようだった

 

私が生まれて初めて死後の処置をしたのは

父親だった

 

私は看護師と二人で消毒液を入れたバケツのお湯で

父親の身体を拭いた

 

拭きながら何を考えていたのか思い出せない

白いタオルを無心で

ゴシゴシ

動かした

 

死後の処置をする中で

その看護師と言葉を交わすことはなかった

でも

一緒に拭いているという感じはあった

 

もしここで看護師が

娘の私が死後の処置に入ることを拒んだら

もっと深い大人たちへの憎しみを

私は感じていたと思う

 

人生で初めて

私が膝から崩れ落ちて泣いたのは

父の柩を火葬炉に納め

ガラガラガラ

バタン

ドアが閉まったときだった