血液型と性格の関係
海外、特に欧米には民族ジョーク、エスニックジョークというのがある
民族によるステレオタイプを皮肉ったジョークである
だが、日本では民族ジョークは韓国系の人への差別や
離島系の人への差別の助長になりかねない
差別にならずにステレオタイプで笑えるもの
という意味では地方ごとに県や旧藩でのものがあるが
例えば今でこそ大阪人は○○で京都人は○○みたいな話も
全国規模でなんとなく行われるが
昔は近畿の人間にしか大阪人と京都人に違いがある、と言われても
ピンと来なかった
南部藩と津軽藩でジョークを作っても当事者達は笑えないし
他県人からすれば意味が分からずに笑えない
ヒトはとかくステレオタイプで語るのが好きなのだが
日本では、出自や民族でステレオタイプを作るのは
差別に繋がるので無理である
では地域ではどうか、というと
今、秘密のケンミンショーというテレビ番組があるが
藩という垣根が取り払われてまだ140年
藩単位でステレオタイプを語れるがそんなんを判るのは
当事者達だけ
相模ナンバーを相撲ナンバーと言って笑えるのは東京人だけ
滋賀ナンバーをゲジゲジナンバーと言うのは京都人だけ
つまりこの狭い日本を200に分けてステレオタイプは作れない
そういう意味で星座なんかもあるし干支なんかもあるが
なかなかステレオタイプを作ってもピンとこない
つまりヘビ年生まれは執念深いとか猿年うまれはやかましい
とか言われてもふーん、てなもんである
ステレオタイプが好まれるのは少数派と多数派に分けられる事
しかもそれが極端でないほうがいい
そういう意味で日本人の血液型比率は4:3:2:1
というステレオタイプをつくるのに恰好なネタといえる
医学的、統計的には大正時代から研究されてきて
結局、血液型と性格に関係は見られないと結論付けられているが
子供のころからステレオタイプを刷りこまれて
日本人はみんななんとなく暗示にかかっているのである
「あなたの血液型はAかOだよね」
と言えば日本人の場合7割はあたる
だから、血液型を気にするのはABかBのヒトが多い
つまり血液型がAB型かB型の人に「やっぱり」
というと傷つく人が多い
ステレオタイプとして攻撃されるのは2割のB型
5人に1人というのはバランスのいい少数派なのである
47日目
ちゃかちゃんりんちゃんりん
皆様、金玉亭タヌ助でございます。
えー、本日もつまらない話をおもしろおかしく話す
時間がまいりました。
お時間が許しましたなら、最後までお付きあい下さいませ。
えー、最近また、エゴグラムなるものが流行ってる様で
自分でどんな性格かを答えて性格を診断するんだから
占いとか心理学テストなんかよりは自分の性格を
分析するにはなかなか結構なんですが
これが、不思議とあたしの場合、毎回結果が変わる。
勿論、同じ答えをすれば変わらないんだが
「はい」と「いいえ」と「どちらともいえない」の三択で
気分でどちらとも言えないを選択するので
結果が変わっちまうわけで。
参考までにホームページは
http://www55.channel.or.jp/human_labo/index.php
なんですが
これをやった人はよく当たるなんてことを言いますが
当たるんじゃなくて分析してるだけなんで
くれぐれもお間違いなさらない様に
ちなみにあたしの場合は
1回目が1位 F.ごくフツーのタイプ
2回目が17位 E.クールでキツイ「やり手」タイプ
3回目が15位 D.ガンコ親父の石頭タイプ
てな具合でなんかタイプがちょと違う様な。
「おい、ポン吉。エゴグラムてのがあるから
ちょいとやってごらん。」
「師匠。大変です。」
「なんだい。」
「H.トラブルメーカータイプ だそうです。」
「いや、結構あたってるんじゃないか。」
「結果を見るとなんかとっても嫌なやつみたいです。」
「質問に対してそう答えたんだからしょうがないじゃないか。
例えば一問目の
待ち合わせの時間はキッチリ守るほうだ
なんて質問で
常に守るか、概ね守るか、どちらかといえば守るか
で判断が変わってくるんだよ。
キッチリという表現が、早くても遅くても
いいえになるのか
5分程度の遅れは許容範囲なのかで違う訳だ。」
「つまり、質問の解釈によって答えが変わるんですね。」
「そう。必ずしも質問者の望み通りに回答者が
答える訳ではない。
国会の答弁なんざ、その最たるものだな。
よく、野党の議員がYESかNOで答えて下さい
て大声で怒鳴ってるのに
答える大臣たちはどちらともいえない
みたいな答えをしてるだろ。」
「だから、どちらともいえないて選択肢が
あるんですね。」
「試しに全部、どちらとも言えないを全部の質問に対して
選択してごらん。どうなる。」
「あ。F.ごくフツーのタイプになった。」
「つまりファジーな答えにはファジーな判定しか出ないんだな。」
「ちゃんと自分の性格を分析したければ、
YESかNOで答えた方が良いわけですね。
なんか変な感じもしますがね。」
「コンピュータがやってるから性がないな。
例えば、170センチの男が
あなたは背が高いか背が低いか
てな質問にどちらに答えてもおかしくはない。
ところがコンピュータの分析では
その高いと答えたか低いと答えたかによって
結果が異なる訳だ。」
「それはプログラムで振り分けても一緒ですね。
身長を記入させて、170以上と170未満で振り分ける。」
「お見合いの登録なんかはきっとそうなってる。
169.9センチは背が低い。
170センチは背が高い。」
「落語家がコンピュータで判断されなくてよかったですね。」
「笑いの大きさを音量計で測定して
テレビの視聴率みたいに寄席の結果を毎日グラフで
渡されたらかなわねえからな。」
「そうですね。誰も人情話なんかしなくなっちゃう。」
「ま、おまえみたいに人情話してんのに笑われるてのも
考えモンだけどな。」
とゆうところで
お時間もよろしいようですので
続きは、又の機会にという事で。
ちゃかちゃんりんちゃんりんちゃんりん
「知楽魚」
日本のノーベル賞と言えば湯川秀樹博士である
「知楽魚」
湯川博士が晩年によく色紙に書いた言葉だそうな
(以下引用)
荘子「秋水」の最後に次の一節があります。
ある時、荘子(そうし、紀元前四世紀頃)と
恵子(けいし)が川のほとりを散歩していました。
恵子はものしりで議論の好きな人でした。
荘子;魚が水面に出てゆうゆうと泳いでいる。
あれが魚の楽しみだ。
恵子;君は魚じゃない。
魚の楽しみがわかるはずがないじゃないか。
荘子;君は僕じゃない。
僕に魚の楽しみがわからないということが
どうしてわかるのか。
恵子;僕は君でない。
だからもちろん君のことはわからない。
君は魚ではない。
だから、君には魚の楽しみがわからない。
僕の論法は完全無欠だろう。
荘子;ひとつ議論の根元にたちもどってみよう。
君が僕に、君にどうして魚の楽しみがわかるか、
と聞いた時にはすでに君は僕に
魚の楽しみがわかるかどうかを
知った上で聞いたのではないか。
僕は濠水のほとりで魚の楽しみがわかったのだ。
おおざっぱに言って、科学者のものの考え方は、
次の両極端の間のどこかにある。一方の極端は、
「実証されていない物事はいっさい、信じない。」
という考え方であり、他の極端は、
「存在しないことが実証されていないもの、
起こりえないことが証明されていないことは、
どれも排除しない。」
という考え方である。(以上引用)
いや科学者に限らず
「自分の経験していない事は一切信じない」
「自分の理解出来ない事は全て誤りである」
という人もいる。
「幽霊はいるか?」と言われて
そんなもん居るわけ無い
と言下に否定する人によく出会う
「男女の友情は存在しうるか?」
という質問にも
それはあくまでも思いこみであって
男性には大なり小なりの下心があって
女性と接しているのだ
と断言している男性にもよく出会う
だから魚の楽しみが解ってる人がいたって
いいじゃないか
と思うのである
例え自分には解らなくとも、だ