今回は長女の出産時、さい帯血を個人で保存しようと思ったきっかけとなった出来事について書いてみようと思う。

前回書いた息子の出産で入院している時、別のフロアーに親友が入院していた。

彼は白血病で、お兄さんの骨髄を移植して、無菌室から一般病棟へ移ったところだった。

私たちは高校の時に同じクラス、同じ部活(運動部)で、音楽の授業でバンドも一緒に組んだ。なぜか馬が合った。
彼はギター、私はキーボード、文化祭の度に有志バンドで演奏し、大学に入ってもそれは続き、ライブも何回かやった。

彼は本気でミュージシャンを目指していて、レコード会社にデモテープを送ったり、当時流行っていた「三宅裕司のいかすバンド天国(いか天、テレビ番組)」に出演したこともある。ゆずのように横浜駅周辺でストリートライブをやっていた。

毎日のようにスタジオを借りて練習したこと、お互いに違う人と付き合ったがその悩みを分かち合ったこと、大学卒業後も交流は続いた。

その彼が白血病になってしまった。結婚して子供はいない。病気で作れなかった。

入院中、

「俺がそっちに行くと他の人に嫌な思いさせるからこっちに来てくれ」

嫌な思い、とは、彼の病気、白血病のこと。抗がん剤で髪も眉もまつげもなくなり、皮膚の色が灰色っぽく、見た目が少し異様だった。

背も180cm以上あって威圧感もあったかな。



私は看護婦さんに息子を預けて彼の病室によく遊びに行った。そこには懐かしい面々がいて、毎日が同窓会のようだった。

私が退院する日、赤ちゃんを抱かせてくれ、と頼まれた。
彼の病室に息子を連れていき、しばらく抱っこしてもらった。
「かわいいなぁー。俺も自分の子、ほしかったなぁ」
「病気治してさ、できるよ。きっと。奥さん若いし。」
それが最後の会話になってしまった。

子供が欲しくても作れなかった彼。後に彼の奥さんから彼の死後手紙をもらったときに、息子を抱いたときのこと、すごくかわいくてうれしかったこと、何度も何度もその話をした、と書かれていた。

骨髄移植は成功したわけだし、一般病棟で元気そうだったし、まさか数ヵ月後に亡くなるとは思わなかった。

32歳で亡くなった彼。早すぎる。

今でも時々彼のことを思い出す。レコード会社に送ったというデモテープ、クサい歌詞に笑ってしまうが今でも私の宝物だ。

36歳の時長女を妊娠、これが最後の妊娠と思い、さい帯血についてもっと調べてみようと思い立つ。

それはまた次回に。。