前回の「前置き」が長くなっていしまいました。

感想に移ります(多少のネタバレを含みます)

 

 

今回あつかう『関心領域』という映画は、

前回解説したナチス責任者の「悪の凡庸さ」を、

終戦後の裁判のような、後からの振り返りではなく、

当時の状況を再現して

そこにいた様々な立場の人たちを通して

「リアルタイム」に描いた作品と言えるのではないかと思います。

 

それも、異常そのものである「強制収容所の中」ではなく、

その外側で、粛々と営まれる「市民生活」を描くことによって。

 

 

本作では、出演者にできるだけ自然な感情で演技をさせるために、

撮影において作り物のセットは使わず、

アウシュビッツの現地に現存していたヘスの家を使用して

可能な限り当時の状況を再現しています。

 

撮影のカメラは固定されており、カメラマンは不在。

室内の映像に移動もクローズアップもないのはそのためです。

さらに、ライトは使わず自然光のみで撮影したそうです。

 

 

この映画は、始まってからずっと、

とても「豊か」で「平和な」ヘスの家庭の様子が、淡々と描かれます。

 

 

ただ、そこにどこか「不穏な空気」がある。なんとも名づけようのない緊張感。

 

もちろん、それは塀一枚を隔てて、あの「アウシュビッツ」の施設があるから。

 

そしてそこからは、かすかな声や物音が、断続的に聞こえてくる。

 

自然音の中に、遠い悲鳴が混じる。

突然、怒声や命令する声が飛び込んできたり、

脈絡なく「パーン」という銃の破裂音が空気を震わせる。

夏休みの子どもたちの、はしゃぐ歓声の響く空には、

焼却炉から出る黒々とした煙がある。

 

大きな温室の屋根と平行に、少し向こうに白い煙が移動するのが見えて、

駅に大量の囚人を乗せた機関車が、到着したのだろうとわかる。

 

※ガラス屋根の上に低くたなびく白い煙が見えるでしょうか

 

映画では一切の説明はありません。

 

家族の日常生活の背景にある、こうした出来事に気づくたびに、

観客の心は少しずつ傷ついていきます。

 

そして、見続けるうちに、もうひとつ気になってくるのが、

ヘスとその妻との「温度差」とでもいうべきもの。

 

 

妻にとってここでの生活は、彼女が十代からずっと夢見てきて、

ようやく手に入れた「理想」そのものです。

 

彼女は、庭のレイアウトを自ら設計し、

塀に蔦を這わせ、花を育て、野菜を植え、

庭をさらに良いものにしようと努めます。

 

「何ら何まで、本当にすばらしい暮らしなのね!」

初めてここを訪れた母親の賛美に、

「わたしのことを、『アウシュビッツの女王』っていうひとがいるの」

彼女はさも満足げに答えます。

 

一方、ヘスという人は、親衛隊員として収容所に配属以来、

優秀な成績を上げて、アウシュビッツ収容所の「初代長官」となった人物です。

 

この施設は、当初はあくまで「強制収容所」であり、

飢えや虐待、人体実験などで死亡する囚人はいても、

決して「大量虐殺工場」でありませんでした。

 

それが、「ユダヤ人絶滅計画」を聞かされ、

「ユダヤ人抹殺センター」に改築せよとの命令を受け、

数万単位のユダヤ人が輸送されるようになったのです。

 

収容所の機能を高め、より効率よく運営するため、

ガスによる集団殺害が選ばれ、

急増した大量の死体を処分するために、

ふたつの焼却炉を交互に使う循環式焼却炉が考え出されます。

 

※設計図を広げて新焼却炉の相談をするヘス。

彼らは処理する死体のことを「荷」と呼びます。

 

さてさて

当時、ドイツという国は、ドイツ人の血と名誉を守るという名目で

「ニュールンベルグ法」という法律を作り、

ユダヤ系の人たちからドイツ人資格を奪い取りました。

 

それは「国益」とは関係がありません、いや「思想」ですらない、

ある種のケッペキ癖のような、純血主義の夢想の道です。

 

そして本当は、ユダヤ人を全員、ドイツの国外に追い払い、

スッキリと一掃したかったのです。

それが実際にはできなかったために、

仕方なしに国内に作ったのが「強制収容所」だったでしょう。

 

ですから「強制収容所」は、

それを作ったドイツにとっても

本来的には、「存在しない方が良かった」矛盾した存在なのです。

 

 

ヘスは回顧録の中で「アウシュヴィッツをユダヤ人抹殺センターに改築せよとの命令には、何か異常な物、途方もない物があった。しかし私はそれに熟慮を向けようとはしなかった。私は命令を受けた。だから実行しなければならなかった。」と書いています。

 

見るべきものを見ずに判断停止して命令を実行する

典型的な「悪の凡庸さ」がここにあります。

 

 

一方、彼の妻のここでの理想の生活は、「強制収容所」という、

本来「存在しない方が良かった」施設を

仕方なしに作ったがゆえに成立している

存在根拠があやふやな

かりそめの生活と言えるでしょう。

 

彼女の母親は、ある朝、誰にも告げずにここから立ち去ります。

彼女は母親から屈辱を受けたかのように、使用人に当たり散らします。

 

また、夫であるヘスがここでの業績が評価されて、

他所に栄転することになっても、彼女はしがみつくかのように

子どもたちとアウシュビッツの家に残ります。

 

彼女の理想の家を守るために、

目の前に厳然と存在する「強制収容所」の存在を、

自分の視界から追い払らって。

ここにも、別の形の「悪の凡庸さ」があります。

 

アウシュビッツで暮らす、妻の壊れ方の在り様は、

映画の中で割と表現されおり、それなりに見えるのですが、

 

ヘスの方は、

増え続ける課題を有能にこなして、周りからも評価を受け、

かつ、家庭では子どもたちの相手をし、妻の願いを聞き入れる。

苦労を表情に出さず、感情の起伏をほとんど表に表さないため、

心がどのように壊れているのかが、非常にわかりにくい。

 

けれど、最後の

アウシュビッツに戻ることが決まり、

開かれたパーティを見下ろしながら夢想した内容を

うれしげに妻に電話するシーンと、

階段を降りていくシーンとで、

それが一気にめくれあがる。

 

アウシュビッツでの生活が、

いかに彼の内部を引き裂いていたかが垣間見えます。

なかなかの衝撃でした。

 

 

この暗視カメラで撮影された「なぞのリンゴ置き少女」が、

この映画を見続けるうえで、救いとなっているのですが、

それよりも観客にとっての実際的な救いは

ヘス家が飼っている、黒い犬と馬の存在だったと思います。

彼らを見るときにだけ、私の心は緩み、救われたのでした。

 

なんにせよ、この作品は、劇場で

大スクリーンと大スピーカーの音声とでご覧になってください。

またとない映画体験になると思います。

 

 

かなり長い文章になってしまいましたが、

最後に、妻役を演じた「ザンドラ・ヒュラー」のことを少しだけ。

 

この映画での彼女は少し太って体形を崩し、

そして歩き方も蟹股気味にして、

嫌味にならない程度のだらしなさを見せており、

きつく、少し利己的な性格と相まって

非常にリアルな感じを生んでいました。

 

先に公開された、『落下の解剖学』の感想にも書きましたが、

私は『ありがとう、トニ・エルドマン』(2016)を見て以来の彼女のファンなので、

国際的な評価を得たこの作品で、彼女の演技力が評価されるのは良いのですが、

「イヤな女」のイメージを持たれてしまわないか

 

そんなことを心配したのでした。

バカですね、はい。