自分のやりたかった仕事への熱意を、”もうどうでもいいや的感覚”で放棄してしまい担当教授に、就職先を決めてさせてしまったところから裕也の社会人としての挫折が始まっていたわけだ。
その仕事が好きな人にとっては業界一流だったし待遇もいい会社だったのだが、意に沿わない仕事をしている上に、元々性格的に合わない部長がほとほと嫌になり、最初の会社を1年半でやめてしまった。
そして、不況の嵐の中で、半年間、無念の失業時代を味わう。

学生時代の夢の放棄は、結果的にうんざり感を引き寄せただけであり、辞めてはみたものの行くところがなく、焦燥感に煽られて止むを得ず妥協して設立間もない会社へ入る。
会社規模、会社実力、知名度、待遇等々、前の会社とは、雲泥の差という状態を通り越し、もはや比較の対象外のような会社である。

そこでは、実際的実務的能力としては裕也がトップになったが、その能力はまるで評価されず、設立当初からいる裕也の上司にあたる者がやたらと評価され、優遇される馬鹿らしさ。
仕事については全力を尽くしたが、本来的には、実務経歴年数を得るために三年間ほど我慢していただけの会社であった。

三年を過ぎたあと、難関試験を乗り越えて有名コンサルタントに入社でき、大幅アップの収入を得るようになり一年経ったが、やはり仕事に馴染めない。
自分の夢だった仕事からは、だんだんとかけ離れていくばかりなのだ。
もとはと言えば自分が悪いのではあるが、どうしても馴染めない。
それに収入はいいが、まわりの室長を見ると誰もが疲れ果てている。将来への何らかの明るいものも感じられないのだった。

妻の理絵は、裕也の仕事のことには何も言わない。悩みを伝えても、裕也の苦しみどころを理解していないようだ。しかし、それも仕方ないのだ。
理絵は、何か言う術がなかったのだと思う。
理絵にとっては、それまでの生活の中では、自分の考えを持ち、それに向かうということ、そうしようということは、障害に対して不可抗力だったから。
幼児期から親戚の家を転々とし、11才で我が家に戻ったときは、父は入院中で、母も寝たり起きたりの超貧乏生活、そして15才では退院したばかりの父が事故で死亡・・・そんな中で、「自分としての生き方」の確立なんかできるはずがないと思う。

裕也は、とにもかくにもやる気を失い、その日を含め三日間を無断欠勤して、四日目に退職願を出した。

28才無資格、これから建築設計の下っ端から始めるのは生活的にも無理だし、第一、初心者としては年の取り過ぎで、年相応の給料で雇ってくれる会社があるわけもない。
もはや、経験的にも収入的にも、地域計画の仕事で進んでいくしかないのだ、本当は。
しかし、それに限界を感じたから、せっかくの好待遇のこの会社をやめるという決断に至ったわけだ。

建築は、もう無理。
地域計画の仕事は、どうしても肌に合わない。
低収入は論外。

では、何をすべきなのか・・・
これまで、裕也は何をやっても、その場において人並み以上のことをやり抜いてきた、
この先、何をやろうと、やれないことはないのだという自信だけはあった。
だからこそ、この不況時に、好待遇の会社を辞められるのだというプライドがあった。
まだまだ、社会の厳しさを分かっていない裕也であった。