理絵の10年ぶりの帰宅の理由は、それまでの仕事上の無理や不十分な栄養摂取のためか、45才になった母は寝たり起きたりの体調になって、家事をまともにこなせなくなってしまったからだったのだ。
三つ違いの兄は、昼間は近くの工場で働きながら夜間高校へ通う身、妹は小学生、母親も寝たきりとまではいかないが手伝いが必要な状態だったわけだ。

中学2年になった理絵は、転校したわけであるが友人を作る間もなく、授業が終わるとすぐ家に帰り、掃除、洗濯、買物などの家事を受け持った。
夕飯の支度は母がやったが、いつも安い材料を使った決まりきったパターンのものばかりだった。長年の貧乏暮らしが染みついてしまっているのに加え、体調の悪いことから、おいしいものを作ろうという意欲が失われているようだった。
兄は、毎日10時半ごろ疲れ切って帰ってくる。
理絵は、同級生との友だちもできず、いや、できたからと言って一緒に遊べるわけでもないし、友だちといったら同じアパートに住むやはり生活保護を受けている同学年の別なクラスの女の子と日曜日に近所の公園で遊ぶくらいしかできなかった。

母ではあるが、物心つく前に伯母に引き取られたわけだから、何とはなしに別れのときの記憶がうっすらとあるだけ、兄のことなどまるで記憶はないし、ましてや理絵が伯母に連れて行かれたとき、母の胎内にいた妹とはこれまで一切の係わりがなかったのである。
言ってもしょうがないことだが、日常の暮らし、たとえば、友だちとのつきあいや食生活など、伯母と暮らしていたときの方がずっとましだった。唯一のプラスといったら、今は肉親と暮らしているということだ。

理絵が中学3年の夏に、父が退院した。
これまでの病気は完治、しばらく体力を取り戻しつつ、普通に働いて大丈夫ですよという医師のお墨付きで父が戻ってきた。
それはいいことだが、6畳と3畳の狭いアパートで、父、母、兄、妹との5人が生活するわけだ。

しかも、それまで、それぞれの共通点は父と母が同じというだけであり、その他の接点は今までなかったに等しい。これは、父母以外にとっては、かなりのストレスだったと思う。

妹は、母から甘やかされたまま育っているので我がまま、兄は仕事と学校で疲れ切っている。少ない家具とはいえ、寝るとき布団を敷いたら布団だけでめいっぱいを通り越し、布団が重なる状態だ。
理絵の思いは、伯母と暮らしているときと変わることがなかった。
自分の真の思いは表には出せない、自らの意見の類は言わないと。

伯母から聞いていた父とは、ずいぶん変わって退院いたようだ。
パチンコも競馬もしなかった。
そして、しばらく体力づくりをしたら働くから、すまないが、ちょっとの間、待っててくれと言ったのだった。