裕也が祐子と楽しい日々を送っていた頃、彼らとはまったく別な世界に小林理絵という16才の少女がいた。

小林理絵は、中学2年になる前の春休みに、預けられていた福岡の親戚の家から夜行列車の一人旅で親元に戻ってきた。3才のときに連れて行かれ、なんと10年ぶりの帰宅である。
戻ってきたからといって、一家の暮らしが楽になったとうわけではなかった。
父は、いつからかは覚えていないが理絵が小学校の頃から遠方の病院に今だ残る結核病棟に入所しており、東京の自宅に戻ったあと、一度会いにいったが、父は喜んでいたが、自分としての実感はまるで湧かなかった。何しろ実家を離れたのは3才のときのこと、父の記憶などあるはずがない。

自宅といっても、昔からある旧式の木造アパートで、玄関を入れば1畳分もないような台所、元は3畳くらいあったであろう台所に後付けで作ったと思われるトイレと超狭い浴室、
正面のガラス戸を開けると3畳の部屋、続いて障子を開けると6畳という住まいだった。
昔、よく言われた鰻の寝床スタイルだ。

理絵には二つ違いの兄がいるのだが、理絵が3才のとき、母は3人目を妊娠した。
父は、その日暮らしのような仕事しかせず、それで得た金も、翌日にはパチンコにつぎ込み、やけ酒を飲んで帰ってくるような一家の主人として失格の人間だった。
母はパートに出て、なんとか生計を立ててはいたが、もはや十分なパート仕事も出来るわけはなく、その上、子どもが生まれたら、幼子二人に乳飲み子を抱えてどうやって生きていくのか。夫は、十分に働ける能力を持ちながら働かないのだから生活保護申請がとおるわけもない。見かねた理絵の母の独身だった姉が、理絵をしばらく預かるということで、東京から福岡まで連れて行ってしまった。

理絵は、そこで約10年間暮らすことになる。大事にはしてもらえたのではあるが、この伯母には独特な個性があり、それに基づいて理絵を育て教育するわけだから、理絵は子どもらしい甘えとか、ときにはだだをこねるということが自然とできない子になった。
いつもおとなしく出る杭を打たれないようにする、これが彼女の性格の原形となった。
子どもながらに、伯母に逆らったら、自分は行くところがないのだと感じていたのだろう。
自分なりの意見は持たない、いやあっても言わない、心の中の真の思い、怒り、悲しみは表に出さない少女になった。
だから、頭の中ではいろいろなことを空想して、一人の時間を楽しんだ。

ある程度の話が理解できるようになってから、伯母から親元の状況を聞くことがあった。
父はパチンコのみならず、競馬にも手を出すようになり、一攫千金狙いでろくに働かない状態は改善されていなかったという。そしてそういう日々を繰り返しているうちに弱った身体は結核菌に感染してしまい、今どき珍しい病院の結核病棟に入院しているということだった。
母といえば、3人目を生んだため、まともに働くのは不可能になり、その上父は入院という状況なので生活保護申請が通り、援助を受けて暮らしているということだった。

そして、理絵は伯母の家で10年間暮らしたわけだが、中学2年になる前の春休みに、親元に帰ることになった。
親元の暮らしが多少なりとも豊かになったがために一家そろって暮らせることになったということならば嬉しい話だが、そういう理由ではなくしての10年ぶりの帰宅だった。