同じ学力で、成績が変わる方法
できる営業マンと、できない営業マン。
お客に伝えている情報はほぼ同じ。
でも、伝えている順番が、
できない営業マンは1,2,3、・・・という順番なのに対して、
できる営業マンは、3,9、4・・・だったりする。
相手が聞きたい順番でいうと、
そこには「満足」「信頼」「安心」が生まれます。
この人は分かってくれている。
その思いが、結果として購買につながります。
逆だと、イライラ、怒り、不満が募ります。
このことは、教育にもいえます。
学校の教育では難しいのですが、
数学は四則演算から始まり、
歴史は原始時代から始まる。
面白いでしょうか?
基礎ができていないと、途中からやってもわからない。
だから、最初は基礎から。
理屈は通っています。
けれど、私たちは人間です。
人間は感情の生き物です。
やりたくないものはやりません。
やらなければ結果はでません。
やりたい、という意志を育てるのは、
楽しいところ、やりたいところ、なのです。
バスケットにあこがれた人がいる。
バスケの基礎のドリブル、パスをみて、
バスケをやりたいと思うかどうか。
かっこいいシュートシーン、
ドリブル、それをみて、
俺もやりたい、と思う。
その結果、必要だから基礎をする。
野球も同じ。
イチローに憧れたひとも、
イチローの練習に憧れたわけではないでしょう。
にもかかわらず、
なぜか勉強は基礎から始まります。
だから、みんな続かないのです。
やりたくないから。おもしろくないから。
面白いところからやるのです。
興味がありそうなところからやるのです。
それを理解するために必要な基礎は、
そこで教えればよいのです。
目的が見えているから、そのために必要なことに対して、
人は貪欲に学びます。
数学なんて勉強してなんになる、
国語なんて勉強してなんになる。
この問いに対して、何を答えても無駄です。
この問いがでることが問題なのです。
相手が面白いところ、やりたいところから始める。
そこには理由はいりません。
本人がやりたいのです。
それに対して、教える側が必要なことを教え、伝え、
さらにいえば、人生の先輩として学んだ「人生の真実」を加える。
そうやっていくことで、本当の教育がうまれます。
家庭教育、塾教育など、学校教育以外の場があるのであれば、
子供に問いかけるのです。
全体をみせて、どこからやりたい? と。
学習で大切なのは、何よりも、まず最初にやりたい、という意志を引き出すこと。
それに対して、教える技術があるのです。
意志を引き出すには、相手がやりたいところから始めること。
でも、
これは非効率的にみえます。
今日やったことが、明日すぐには成績として現れません。
けれど、少し長いスパンでみると、
まるで異なる成長を促します。
フィンランド教育の本質
フィンランドの教育はすごい。
そんなコトバを良くききます。
どこがよいか。
それは先にお話しました、自由課題のやり方に通じるものがあります。
フィンランド教育の基本は、エッセイを書くことです。
たくさん本を読み、調べ、エッセイを書く。
これをただひたすらします。
たとえば、あるテストは、
「手」について知っていることを書きなさい。以上。
まるでテーマが「手」の自由課題です。
日本の教育は、主要の5教科があり、それぞれを学びます。
国語は国語、英語は英語、というそれぞれに文部科学省の決めた目的があります。
けれど、フィンランドの発想では、
目的はエッセイをかくこと。
扱うテーマ・素材が、英語であったり、国語であったり、理科なだけ。
考えてみれば、社会にでたときに必要なチカラというのは、
国語の分野、とか、理科の分野、と分かれていません。
生きていくのに必要なのは、他者に何を提供できるか。
人にどんな感動、喜びを提供できるか。
だから分野を分けて考えても意味がないのです。
授業の運営上、分けざるをえないとしても、
それぞれの教科の目的をかえる必要はありません。
目的はいつもひとつ。
エッセイをかくこと。
その本質は、自由課題と同じように、
見る人を感動させること、
へー、と思わせること、発見させること、気づかせること。
これに尽きます。
そのために、何を調べてもよいし、
方法も自由。
それは社会に出たときに必要なチカラと同じですね。
あらゆるものを使ってよい。
そして、人を感動させる。感心させる。
その分お金をいただける。
それで食べていける。
数学の公式とか、知識は、すべて、道具です。
目的のために、必要なだけです。
目的が見えていないと、道具集めに走ってしまいます。
すると、重くて、苦しくて、身動きができなくなります。
繰り返しますが、
私たちが生きていくうえで必要なことは、
他者を感動させることです。喜ばせることです。
その方法は、自由。
フィンランドの教育は、それを子供のころから自然と身につけさせています。
だから、評価されるのです。
事実、フィンランドの子供は幼い頃から何をして食べていくか。
その職業意識があるそうです。
社会全体に、勉強することと働くことが直結しているからでしょう。
勉強の意味はなんですか?
数学なんて社会に出て何の役に立つの?
その答えが何かより、
そんなコトバがでること自体に問題があるのです。
人を感動させる。喜ばれる。そして嬉しい。
もしこれが自然とできるのなら、
先ほどの問いに答える必要は、ないのではないでしょうか。
自由課題のできない子供たち
読書感想文と同じように、
自由課題、というものもフシギです。
気づけば夏休みの課題になっていました。
どうやってやるのか。
それを教えられることもなく。
誰も教えてくれませんでしたが、
自由課題とは、何でも自由にやってよい、ということではありません。
自由課題とは、人を感動させてください。
そのためにはどんな方法をとっても自由です。
このように問われています。
多くの人は、何でも自由にやってよいと思うから、
身近なもの、スキなものをまとめて終わります。
けれど、問題は、扱うテーマ、素材ではなく、
そのテーマや素材をどのように扱うかです。
たとえば、トイレを自由研究します。
目的は、研究結果を伝えたとき、見た人が感動してくれることです。
人が感動するには、どういうことが大切か。
これは、また、別の機会にお話させていただきますが、
感動の必要条件、を満たす必要があります。
これは20パターン程度しかありません。
その一つに、
人にとってかけがえのないもの、と感じさせること。
例えば、トイレがあったからこそ、救われた命がある。
こうなれば、感動するのでしょう。
ゴールは決まりました。
あとは調べるだけです。
例えばでかけば、トイレの歴史とは、
社会の衛生面の歴史です。
衛生面が悪ければ病気が蔓延し、人が死にます。
とくに、弱い、子供や老人から。
命をまもるためにトイレに尽力した人がいる。
その人のおかげで、体の弱い赤ん坊が何万人も生きることができた。
そういった視点でトイレを研究したとき、
それはきっと評価されるでしょう。
人を感動させるという目的を達しているから。
繰り返します、
自由課題の意味は、人を感動させることです。
自分が扱う素材に対で、感動させるゴールを設定する。
その条件は20パターンほどありますが、またお話します。
すぐ知りたい人は、自分が何に感動するか考えてみてください。
それが、感動させる条件です。
その素材を、あなたが感動したふうに扱ってみるのです。
自由課題、というものもフシギです。
気づけば夏休みの課題になっていました。
どうやってやるのか。
それを教えられることもなく。
誰も教えてくれませんでしたが、
自由課題とは、何でも自由にやってよい、ということではありません。
自由課題とは、人を感動させてください。
そのためにはどんな方法をとっても自由です。
このように問われています。
多くの人は、何でも自由にやってよいと思うから、
身近なもの、スキなものをまとめて終わります。
けれど、問題は、扱うテーマ、素材ではなく、
そのテーマや素材をどのように扱うかです。
たとえば、トイレを自由研究します。
目的は、研究結果を伝えたとき、見た人が感動してくれることです。
人が感動するには、どういうことが大切か。
これは、また、別の機会にお話させていただきますが、
感動の必要条件、を満たす必要があります。
これは20パターン程度しかありません。
その一つに、
人にとってかけがえのないもの、と感じさせること。
例えば、トイレがあったからこそ、救われた命がある。
こうなれば、感動するのでしょう。
ゴールは決まりました。
あとは調べるだけです。
例えばでかけば、トイレの歴史とは、
社会の衛生面の歴史です。
衛生面が悪ければ病気が蔓延し、人が死にます。
とくに、弱い、子供や老人から。
命をまもるためにトイレに尽力した人がいる。
その人のおかげで、体の弱い赤ん坊が何万人も生きることができた。
そういった視点でトイレを研究したとき、
それはきっと評価されるでしょう。
人を感動させるという目的を達しているから。
繰り返します、
自由課題の意味は、人を感動させることです。
自分が扱う素材に対で、感動させるゴールを設定する。
その条件は20パターンほどありますが、またお話します。
すぐ知りたい人は、自分が何に感動するか考えてみてください。
それが、感動させる条件です。
その素材を、あなたが感動したふうに扱ってみるのです。
わかるとは、かわること
勉強ができないことの大半は、勘違いです。
学ぶ前提が違うのです。
私たちは、分からない、ということばを良く使います。
数学をやる。分からない。
国語をやる。分からない。
だから自分はバカだと思う。自分を否定してしまう。
だから勉強がキライになりやらない。
けれど、分からない、でよいのです。当たり前なのです。
勉強のポイントとは、
分からない、できない、ということに対して、
どういう風に自分を変えたら「分かる」ようになるか。
どう「かわれ」ば、「わかる」ようになるか。
そこがチカラをいれるポイントなのです。
今わかることは、知っていることにすぎません。
学ぶとは未知に取り組むことであり、それは当然分からないことです。
そのためにどう「かわる」必要があるのかが学びのポイントです。
今のあなたがかわれば、わかるようになります。
そして変わるからこそ、学び、成長するということなのです。
こう考えてみると、
教師が教えるべきは、勉強の内容ではなく、
今分からないと言っている人に対して、
どういうふうに考え方を変えれば、わかるようになるのか。
それを示すことです。
分からないのは、こういう道筋で考えているから。
でも、分かる人は、こういう道筋で考えている。
その差をつたえ、方向を変える。
かわることで、わかる。
それが学ぶ、ということです。
そんな先生は、少ないかもしれません。
出会えないかもしれません。
でも覚えていてください。
取り組んだことがわからない。
それは文字通り、当然のことなのです。
あなたがかわらなければ、
わかるようにはならないのです。
勉強は、取り組んでいる内容が問題ではなく、
いつも、自分の問題です。
永遠の自分探し
自分探し。
自分らしさ。
個性。
若いとき、誰しもが求めるものではないでしょうか。
そして、なぜか、
今の自分の中に個性があると思っています。
それを探そうと必死になって自己分析をします。
けれど、見つからない。
自己啓発本を買いまくり、
すばらしいコトバの数々に出会い、
ちょっとみつかった気になるも、
やはり自分らしさは見つからない。
「自分らしさを内側に求めても、なんもないっすよ」
と、年下にいわれてハッとしました。
「自分らしさってのは、次に自分が何をするかじゃないんですか」
今にして思うと、
変化していくことが個性なんだと思います。
例えれば、
広告マンが教師になったとします。
するとどうなるか。
広告マンが、授業をすれば、
まず勉強を教えません。
興味を引かせます。
町に溢れるたくさんの広告のように、
気に留めてもらえないものの質など無意味です。
重要のいかんにかかわらず、面白か否か。
広告業界でビギナーであっても、
この考えは業界の基礎ですから身についています。
でも、教師の業界では基本は「勉強を教えることでしょう」
興味を引く授業をするのは、一部の特別な先生でしょう。
行った経歴のすべてが、次のフィールドでは個性に変わります。
今いる場所では、ふつうに思っていることでも、
次の場所では、すごいことだったりします。
個性を探すのなら、
次のフィールドで。
自分らしさ。
個性。
若いとき、誰しもが求めるものではないでしょうか。
そして、なぜか、
今の自分の中に個性があると思っています。
それを探そうと必死になって自己分析をします。
けれど、見つからない。
自己啓発本を買いまくり、
すばらしいコトバの数々に出会い、
ちょっとみつかった気になるも、
やはり自分らしさは見つからない。
「自分らしさを内側に求めても、なんもないっすよ」
と、年下にいわれてハッとしました。
「自分らしさってのは、次に自分が何をするかじゃないんですか」
今にして思うと、
変化していくことが個性なんだと思います。
例えれば、
広告マンが教師になったとします。
するとどうなるか。
広告マンが、授業をすれば、
まず勉強を教えません。
興味を引かせます。
町に溢れるたくさんの広告のように、
気に留めてもらえないものの質など無意味です。
重要のいかんにかかわらず、面白か否か。
広告業界でビギナーであっても、
この考えは業界の基礎ですから身についています。
でも、教師の業界では基本は「勉強を教えることでしょう」
興味を引く授業をするのは、一部の特別な先生でしょう。
行った経歴のすべてが、次のフィールドでは個性に変わります。
今いる場所では、ふつうに思っていることでも、
次の場所では、すごいことだったりします。
個性を探すのなら、
次のフィールドで。
人生のカルビ
カルビとは何か。
ウィキペディアによると、
カルビ(갈비、galbi)は、韓国語で肋骨(あばら)を意味するが、韓国料理においてはその周辺に付いている肉、つまりばら肉のことを言う。多くの場合、牛のカルビの焼肉を指すが、豚・鶏においてもカルビと言うこともある。
知識的にはこうですが
実際、そんなことを考えている人は少ないでしょう。
私たちが感覚的におもっているのは、
カルビ = おいしいところ
このくらいのシンプルさです。
脳みそはそんな風におもっている。
これをうまく利用すると、人をひきつける企画がカンタンにできます。
たとえば、
とうふのカルビ!
サンマのカルビ
米のカルビ
究極、お肉の真逆の概念、
野菜のカルビ!
という企画まで。
こうすると、カルビが好きだけれど、
とうふ、サンマ、米、野菜、があまり好きでない人も、
「ちょっと美味しそう」と感じたりします。
野菜を食べない子にたいして、農家が連合して
「野菜のカルビ」キャンペーン。
うまさ爆発!
みたいなカタチであれば、野菜を食べる最初のきっかけは作れます。
もちろん、そのあと継続させる工夫も必要ですが、
それは第2段階です。
そっぽを向いている人をこちらに向ける、というのは
こういうやり方があります。
相手が理屈抜きに好きなものという衣裳を着せてしまうのです。
この話は、実は脳のものすごい真実を孕んでいるのですが、
それはまた別の機会に。
習わなかった、読書感想文の書き方
読書感想文。
あらすじを書いて、まとめて終わり。
指定の枚数にあわせて。
それは私だけでしょうか。
今にして思うのは、何のために、どうやって感想文を書くのか、
考えたことも、聞いたこともありませんでした。
気づけば、小学生になって、
いきなり夏休みの課題から読書感想文、というものがありました。
そして、誰に聞くこともなく、ただあらすじをまとめた。
以後、ずっと同じ。
そして、大人にいたる。
当然、子供が生まれても、その子に伝える術もなし。
私は、縁あって、今、それを評価、判断したりする側に立ちました。
そしてようやく気づいたこと。
読書感想文の意味。
あなたは、こう問いかけられています。
「あなたはどうしてその本を感動したというのですか。
その理由を私に教えてください。」
その理由に対して、自分の考えを述べるのです。
当然、感動した本を選ばなければなりません。
そして、その理由は、あなたしか知りません。
あなたが感動した理由は、誰かを真似て書くことはできません。
だからこそ、尊いのです。
今になって気づきますが、
これは生きていくうえでもっとも大切なチカラの勉強をしています。
あなたが好きなことを、他の誰かに伝える術。
あなたがしたいことを、人に理解して、共感し、協力してもらう。
ひとりではできない大きなことを、その考えを理解してもらい、一丸となって実現していく。
これは生きていくうえで、何より大切なチカラではないでしょうか。
あの頃、私は、その意味に気づいていませんでした。
だから、あらすじをまとめて終わっていました。
当然、評価されたこともありませんし、
他者の評価うんぬんの前に、目的なくしていたことなので、
ただの作業。何のチカラにもなっていません。
繰り返します。
読書感想文では何をするか。
あらすじを書くのではありません。
あなたが何をすばらしいと思うか。
あなたのことを教えてください。
あなたのことを知りたいのです。
そう問いかけられているのです。
そこで、あらすじを書くのでは、
「あなたはどうしてこの本をすばらしいと思ったのですか?」
「主人公のワタナベが、苦労の末、本当の愛を知る物語です」
答えになっていません。
誰もが、自分が好きなこと、自分が大切だと思うキモチを大切にしていけたら、
それはすばらしいことです。
そのチカラは、実は読書感想文の目指しているところと同じなのです。
読書感想文は、本気で学ぶ価値があります。
あなたが、あなたらしく、生きていくために。
アイデアを見つめるとき、人は自分を見つめる
いきなりこのブログの結論です。
これからたくさんのことを書くなかで、
最終的に、このことを繰り返します。
突然、すごいアイデアが浮かぶということはありません。
アイデアとは何か。
それは、
あるものに対する、あなたの「捉えかた」。
たとえば食べるラー油。
それまでのラー油は調味料でした。
けれど、食べるラー油は、おかずです。
考えた人は、昔からあった「調味料」としてのラー油を、
初めて「おかず」として捉えたのです。
ラー油の問題ではありません。
あなた自身の問題なのです。
あなたが物を捉えるチカラ。
それがそのままアイデア力です。
何もせずに、ものを捉えるチカラは上がりません。
たくさんのものを知り、学び、そのなかで、
すこしずつ、豊かな捉えかたをすることができるようになります。
カニは横に歩く。
確かに事実です。
けれど、世界には、前に歩くカニがいます。
そのことを知っている人と知らない人。
豊かに捉えられるひとはどっちでしょう。
アイデアと向き合うとは、
あなた自身のものに対する考え方と向き合うことです。
あなた自身の考え方を豊かにしていくこと。
それがアイデアを探す旅です。
アイデアを探すたびは、青い鳥を探すのと似ています。
たくさんのことを経験し、
気づくのです。
ああ、いつもみていた風景に、幸せがあったのだ。
それは、青い鳥の主人公が成長したから、
もののとらえ方が変わったのです。
捉え方がかわったとき、見え方が変わります。
アイデアを求めるとは、
そこに最初からあったものに気づくことです。
見えていたのに、見ていなかった。
それに気づくようになる旅です。
それはただうなっていても、
頭の中で考えていても閃きません。
自分の考え方の硬直性に気づき、
客観的に見られるようになり、
他人の考えを見つめ、
自分との差をしり、
そして、その上でどのように考えるか。
そういった、心の成長が、
そのままあなたの捉えられるアイデアの深さになります。
だからこそ、
アイデアと真剣に向き合うのは、
自分自身の成長の旅にでることです。
それはとてもやりがいがあり、
一生をかけて追求するに値するものです。
なぜなら、あなたの人生そのものなのですから。
このブログでは、そんなアイデアを探すヒントを、
日常のいろいろなところから見つけ、
伝えていければと思います。
アイデアとは何でしょうか?
初めての投稿になります。
このブログのテーマは、アイデアとは何か。
誰もがアイデアを求めます。
アイデアひとつで、人を感動させることもできるし、
その結果お金を稼ぐこともできる。
何かを考えて創ることも、遊びをするときも、
いつも人はよいアイデアを求めています。
けれど、私たちはアイデアについてきちんと勉強をしてこなかった気がします。
アイデアは閃くもの。
アイデアはセンス。
才能のあるひと、ない人。
そういって、
アイデアとは何か?
この問いに向き合ってこなかったきがします。
ここでは、アイデアとは何か。
その問いかけをしながら、
アイデアの正体について伝えていければと思います。
