<ご挨拶>

大阪地検勤務中の1997年に大阪締めを知り、大阪らしくて面白いやないかと魅了されて「検察庁に大阪締めを広める会会長」(2008年に定年退官して引退)と「大阪締め研究家」を名乗り始め、「大阪締めで大阪に元気を」と言いながら、大阪締めの普及とルーツの研究に努め、2001年に大阪証券取引所が56年振りに「大株締め」を復活させたのにも貢献してきました。大阪生まれで大阪育ち、こういう人が大阪締めについて全く知らない。マスコミにもいる。これは誠に残念なことだ!
 このブログは、中学時代からの友人半井豊明君に誘われて開いたもので、大阪締めで、大阪だけでなく、東日本大震災の被災地、ひいては日本全国が元気になるように願っています。

<目的>

大阪締めのルーツについての研究を始めてから、研究論文(?)の「大阪締め始末記」が、大阪高検の庁内誌「大阪高検便り」の1997年12月号に掲載され、それを一部修正したものが、1998年5月、大阪市史編纂所が編集し、大阪市資料調査会が発行した「大阪の歴史第51号」に掲載され、その後の研究成果を加えた随筆「大阪締めで大阪に元気を」が、所属する大阪弁護士会の中の会派である一水会の会誌「一水」の2010年3月号に掲載されています。
 しかし、十分な資料がないため、ルーツの詳細な解明には至っておらず、このブログにルーツに関する情報が寄せられることを願っております。
 手締めの起こりを伝えている(と言われている)のは、島根県美保関町にある美保神社で、同神社では、古事記と日本書紀に見られる国譲り神話の中で、事代主命(ことしろぬしのみこと)が打った「天の逆手(あまのさかて又はあめのむかえで)」が、手締めの起源だとしています。
 大阪締めのルーツに関係ある資料としては、1688年に刊行された井原西鶴の「日本永代蔵」があり、堂島米市場(江戸時代に栄えた三大市場の一つ)の前身である北浜の米市場で、取引成立の証として、手打ちがされていたと記載されています。そして、三大市場の人々が、大阪天満宮の天神祭りを支えてきたことから、その伝統が今に受け継がれ、天神祭りのときに打たれる大阪締めになっていると考えられます。
 ところで、事代主命が祭神になっている今宮戎神社でも大阪締めを打ちますが、今宮戎神社は、聖徳太子が600年に四天王寺を建立したとき、同寺の西方の守護のために、当時の海岸近くに勧請したと言われており、949年に創建された大阪天満宮よりも歴史が古い上、当時、海岸付近に事代主命を守護神とする浜の市という市場が立っていたそうなので、浜の市で手打ちがやられていたことも考えられます。浜の市は、(北)浜の(米)市(場)に通じる感じもします。
 それで、海岸近くに戎神社があり、昔は、その近くに市場があったという場所が、全国に相当数ありますが、そういう中で、昔の市場で手打ちがやられていたという話があれば、ルーツの研究が進むので、そんな市場についての情報があれば、是非ご一報下さるようお願いします。

 

大塚清明 弁護士