不登校のあの頃、母は何をしていたのだろう

 

 

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数えてみたら、私が不登校の支援を始めて、7年が過ぎました。支援を始めた頃に小学生だった子が、今では大学生になっていたりします。そういう子たちが、ときどき自分の不登校時代を振り返って話してくれるのですが、その中で何度か、ものすごく驚いたことがありました。

 

「うちの親、毒親だったから」

「ずっと放置されていた」

 

そんなふうに表現する子がいるのです。もちろん、その子がそう感じていたこと自体を否定するつもりはありません。不登校の最中に、親から言われた言葉に傷ついたこともあったでしょうし、学校へ行くよう迫られたこと、病院に連れて行かれたこと、自分の気持ちをわかってもらえなかったこと、見放されたように感じたこともあったと思います。

子どもには、子どもの目から見えた親の姿があります。

 

ただ、私はそのお母さんを知っています。

こう言いたくなります。

「いやいやいや、あなたの知らないところで、あちこち相談に行き、本を読み、学校と何度も話し、どうすればあなたが少しでも楽になるのかを、私も一緒にずっと考えてきました。あなた何も気がついていないのですか?!」

 

児童精神科に何度も何度も電話をして、ようやく予約を取ります。予約の日には朝からそっと声をかけ、なんとか起こし、着替えるところまでいったのに玄関で動けなくなり、結局その日は行けません。それでも、また予約を取り直します。仕事の休憩時間に電話をしたり、子どものいないところで相談員さんに泣きながら話したり、学校からの電話に出る前に一度息を整えたりします。

そんなことを、子どもは知りません。

本当に知らないのです。

 

最近、何件かそういうケースが続いて、私は不思議な気持ちになりました。同じ家で、同じ数年間を生きていた親子なのに、持っている記憶がまるで違う。

 

子どもが覚えているのは、「学校に行けと言われた」「知らないうちに病院に勝手に予約された」「ゲームするなと言われたがそのうちに見放されてゲームはフリーになった」という記憶かもしれません。

一方で親の側には、子どもが寝たあとに相談先を探した夜があり、仕事の昼休みに病院へ電話した時間があり、スーパーの駐車場の車の中で少し泣いてから家に戻った夕方があります。

でも、その時間は子どもからは見えません。

 

私は、「あなたのお母さんはこんなに頑張っていたのだから、毒親なんて言ってはいけない」と言いたいわけではありません。親が一生懸命だったことと、子どもが傷ついたことは、それぞれ事実だろうと思います。親は親で間違えますし、追い詰められてひどいことを言ってしまうこともあります。子どもが「あの頃はつらかった」と感じるのも、その子にとっての事実だと思います。

 

ただ、子どもが知っている親の姿が、親の全部ではない。

そういうことを、私は支援者になって初めて知りました。そして最近になって、これは私自身の記憶にもつながることなのだと思うようになりました。

 

私も昔、親のことを最低な親だと思っていました。高校1年生の夏から不登校になり、その後長くひきこもりました。当時の私は、自分のことで精一杯でしたし、母が何を考え、どこへ行き、誰に頭を下げ、何を頼んでいたのかなんて、ほとんど知りませんでした。

 

不登校の後半、私はなぜか、宣教師の方がやっている英語教室と華道教室に通っていました。今になって考えると、とてもじゃないけれど、当時の私がそれらの教室を自分で見つけてきたとは思えません。今のようにスマホで何でも検索できる時代でもありません。たぶん母がどこかで見つけてきたのだと思います。新聞広告だったのか、誰かに教えてもらったのか、電話帳をめくったのか、それはもうわかりません。母はもう亡くなってしまったからです。

 

母が電話をして、「学校に行けていない娘がいるんです」と事情を説明したのかもしれない。大勢の中には入れないこと、人と話すのもしんどいこと、それでも少し外に出るきっかけが欲しいことを話して、「できれば一対一でお願いできませんか」と頼んだのかもしれません。

そして、そこまで段取りをつけてから、今度は私にどう声をかけようかと考えたのだろうと思います。当時の私に何かを勧めることだって、きっと簡単ではなかったはずです。

 

そして私は、経緯は理解しないまま、決められた日にそこへ行って、英語を習ったり、花を生けたりしていました。

それらの習い事を辞めた時のことも、ほとんど覚えていません。おそらく最後は母が先生に電話をして、「せっかくよくしていただいたのに、すみません」と頭を下げたのだと思います。

 

もう一つの思い出は、私がひきこもりを脱したあとの話です。

ある日、母と近所のスーパーに行きました。そこには、たこ焼きやラーメン、ソフトクリームなどを売るフードコートが隣接していました。子どもを連れた家族が座っていたり、年配の人が一人で休んでいたりする、ありふれた場所だったと思います。

 

喉が渇いた私は、「ここで何か冷たいものでも飲まない?」と母を誘いました。母は嬉しそうに誘いに乗ってきました。

二人でコーヒーを飲んでいると、母が、ふとこんなことを言いました。

「つらいことがあると、よくここでコーヒー飲んでたから、ここにあんまりいい思い出なかった。でも今日、ぶらりちゃんと来てるの、不思議な感じするわ」

 

その時の私は、「へー」という程度でした。深く考えもしませんでした。

 

でも今になって、あの場所に一人で座っている母の姿を想像することがあります。

仕事帰りだったのかもしれません。買い物の途中だったのかもしれません。家に帰れば、不登校でひきこもっている娘がいます。この子はこれからどうなるのだろう。高校はどうするのか。このままずっと家から出られなかったらどうしよう。私の関わり方が悪かったのだろうか。もっと厳しくした方がいいのか、それとも何も言わない方がいいのか。

そんなことを考えながら、紙コップの安いコーヒーを前に、一人で座っていたのかもしれません。

 

周りではいつも通り、人が行き交っています。買い物をする人がいて、家族連れがいて、制服姿の子どもが友達と笑っています。そんな中で母は一人コーヒーを飲み、少し気持ちを整えて、それから何事もなかったような顔をして家に帰ってきたのかもしれません。

そして何年もたって、その同じ場所で、元気になった娘から「何か飲まない?」と誘われました。

母が「不思議な感じするわ」と言ったのは、そういうことだったのかもしれません。

 

母が亡くなった今になって、不登校の親御さんたちを支援していると、ときどき昔の母の姿が急に浮かんできます。児童精神科に何度も電話するお母さんを見て、「母もこうだったのかな」と思います。学校とのやり取りに疲れ果てているお母さんを見ると、「母にもこんな時間があったのかな」と思います。子どもには何も言わず、相談では泣いて、泣き終わったらまた普通の顔で家に帰っていくお母さんを見ると、昔の母の姿が少し見えるような気がします。

 

もちろん、だからといって私の不登校時代のつらかった記憶が消えるわけではありません。母に傷つけられたと思っていることもあります。母も完璧な親ではありませんでした。そして私だって今、自分が親になってみれば、我が子に対して失敗したことはいくらでもあります。

 

これは「親に感謝しましょう」という話ではなくて、ただ、大人になってから初めて見える親の姿というものはあるのかもしれないという話です。そして私はこういう仕事をしているだけあって、その姿が妙にリアルに浮かんでしまいます。

 

今、私はあの頃の母と同じくらいの年齢になり、私の子どもたちも、当時の私と同じくらいの年齢になりました。

そんな立場になって改めて考えるのです。いつか私の子どもたちに、「あの時、お母さんはあなたのためにこんなに動いていた。こんなに悩んで、こんなに苦労した。だから感謝しなさい」と言いたいだろうか、と。

たぶん、それは言いたくない、言う必要がないから言わないだろうと思います。

 

そんなことより、ただ元気でいてくれればいいのです。よく食べて、よく眠って、好きな人と笑って、たまにくだらないことを言って、「今日もまあまあ楽しかった」と思いながら一日を終えてくれれば、それでいい。

私が子どものために何をしたのかなんて、別に知らなくてもいい。覚えていなくてもいい。

 

そう考えると、母もきっと同じだったのではないかと思います。

私は、母があの頃どこへ相談に行ったのか、誰に頭を下げたのか、どんな思いで私を外へ誘っていたのか、ほとんど何も知りません。母から「あの時はあなたのためにこんなに苦労した」と聞かされた記憶もありません。

私がこれほど何も知らないまま大人になったということは、もしかすると母も、私にわからせようとはしていなかったのでしょう。自分がどれだけ苦労したかを知ってほしかったわけではなく、ただ私が元気になってくれれば、それでよかったのかもしれません。

 

 

 

ただ、自分自身がかつて母を「最低な親」だと思っていたからこそ、今は少しだけ思うことがあります。「毒親」という強い言葉だけで、今の若い子たちは自分の親を断罪してほしくないなと。だけど、私ができなかった事を今の子たちに背負わせるのは、それはそれでまた卑怯な事だろうと思います。

 

あとになって初めて見えるものがあります。もう本人には聞けないこともあります。確かめたくても確かめられないこともあります。

私も、母が生きているうちに聞いておけばよかったことが、今になってたくさんあります。

 

もしかすると、母も私に、自分が何をしてきたのかなんて別に知ってほしくなかったのかもしれません。

あの英語教室を誰が探したのかも、華道の先生に何を頼んだのかも、あのフードコートで何度コーヒーを飲んだのかも、母は最後まで私に説明しませんでした。

 

不登校だったあの頃の景色は変えられません。でも、あの頃の母と同じ歳になって、その景色の中に、当時は見えていなかった母の姿が少しずつ見えるようになってきました。

 

そして、ここまで思えるようになるには、私にも少し時間が必要でした。

自分の不登校やひきこもりによって、母が悲しみ、悩み、苦労していた。その事実を、私は長い間あまり認めたくなかったのだと思います。認めてしまえば、自分が母を苦しめたことまで責任を負わなければならない。

 

「ねえ、私を愛しているのなら、こんなこと平気でしょう?」

そうやって、母の喉元にナイフを突きつけていたのは他ならぬ私だからです。

 

スーパーのフードコートの隅で、紙コップのコーヒーを飲みながら、家にいる娘のことを考えている母。

そして何年もあと、その同じ場所で元気になった娘と並んで座り、「不思議な感じするわ」と言っている母。

たぶん母が願っていたことは、今の私が我が子に願っていることと、そんなに違わなかったのだと思います。

ただただ、笑っていてくれればいい。

 

 

 

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ちなみに、あまりにも過去や親への怒りが強く、そこで動きが止まってしまっているような子に対しては、「何もしてもらえなかったように見えていたかもしれないけれど、実は親も周囲も、働きかけるタイミングを試行錯誤していたし、誘ったこともあったんだよ」と伝えることがあります。

もちろん、それで傷ついた記憶を否定したいわけでも、「親を許しなさい」と言いたいわけでもありません。

ただ、「何もしてくれなかった」「自分のことなんて考えていなかった」という一つの見え方だけで過去が固まってしまっていると残念だし、自分からは見えていなかった時間もあったのだと知ることで、少しだけ過去の見え方が変わることがあります。

支援者として親側の事情も知っているからこそ、必要だと思う時には、そういう話をすることもあります。

 

 

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少し前の記事なので、今の私に心境とちょっと違うことを言っていますね。

 

 

 

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