子どもに届く言葉、届かない言葉

 

 

*このブログ初めての方はこちら(書いている人の自己紹介など)

*販売している資料不登校対応の基本FAQ『第10章 昼夜逆転について(親の会アンケートと支援から見えた新しい視点)』を加筆しました。

目次/なぜ昼夜逆転が起こるのか?・不登校期別に見る昼夜逆転の特徴・ 小学生の昼夜逆転・親のサポートの基本方針・(1)混乱期は「睡眠より心の安定」・(2)親の心構えとNG対応・私自身の経験・眠剤について・1. よく名前が挙がる処方薬・漢方・2. 効果の実感とタイミング・3. 結論

 

 

 

 

雑談ができていれば、家庭のキャラはそのままでいい

不登校の対応について、最近つくづく思うことがあります。

親が子どもを虐めたり、露骨に傷つけたりしていないのなら、寄り添いすぎだろうと、過保護だろうと、やや厳しめだろうと、実はそこまで大きな問題ではないのではないか、ということです。
実際、こちらが見ていて「ちょっと寄り添いすぎでは」と感じていた親御さんが、珍しく少し強い口調になった時、その一言が案外お子さんに深く響くことがあります。反対に、ふだんはかなり厳しめのお母さんが、ふっと優しさを見せた時に、その優しさがしっかり子どもに届いていることもあります。もちろん、ずっと優しい親御さんがその優しいキャラのままに親子で二人三脚で回復していくこともあります。

 

結局のところ、大事なのは“正しい型”をなぞることではなく、その家庭の普段の関係性の中で、親が誠実に向き合っているかどうかなのでしょう。雑談ができていて、関係が切れていないのなら、元々の家庭のキャラを生かしながら、何とでもなっていく。私は最近、そんなふうに感じています。「こんな母親でなければならない」「こんなセリフを言えなければ回復しない」そんなことはありません。

親子にはそれぞれ積み重ねてきた関係があって、その関係の中で出てくる言葉や態度だからこそ、子どもに届くのだと思います。

 

そしてもう一つ、私は親御さんに、もっと自分の感覚を信じてほしいとも思っています。
いわゆる“母の勘”のようなものは、案外あなどれません。長く一緒に暮らしてきたからこそわかる違和感、いつもと違う目つき、妙な静けさ、説明できない不穏さ。そういうものは、支援者や専門家が理屈で説明するより先に、親の身体のほうがもう気づいていることがあります。そういえばXでこの話をしていたら、ある親御さんから

 

”母の勘は、悪い方向への精度はすごく良いと思ってる。

「このままでは、マズい」「この声かけは、致命傷」

これは90%当たる。

 

逆に良い方向への精度はトンチンカン。

「これやったら元気になるのでは?」

「これやったら勉強取り組めるのでは?」

ここら辺は当たらないw”

 

このようなリプをいただきました。

まさにその通り過ぎて、ちょっと笑ってしまったのですが、導こうとすると痛いしっぺ返しをくらうことは不登校の親御さんはかなり経験あるのではないでしょうか?また、親の働きかけが上手くいく例というのは回復の流れの中で奇跡的に噛み合った時だけで、通常はそんなことはないという認識で問題ないと思います。

 

また、これはしんどいなと思う家庭には、ある共通点があります。
それは、親が子どもを冷笑していることです。どこかで我が子を馬鹿にしている。「ポンコツ」「私がコントロールしなければこの子は詰む」そんな思想が土台にあると、子どもは本当に弱っていきます。

しかもそういう親御さんに限って、子どもが何かを成し遂げても、それを子ども自身の成果として扱えないことがあります。

 

親が管理したからできた、

親が導いたからうまくいった、

つまり手柄は親のものになる。
 

そして、手柄を横取りされ続けた子どもは、自分の人生の中で何ひとつ成し遂げていないのと同じです。自分で決めた、自分でやれた、自分にも力があった、という感覚が育たない。これが後々まで響きます。

 

 

正しい対応より、生身の感情のほうが届く

最近は、不登校の子やしんどい子に対する“お手軽ライフハック”的な動画が、次々流れてきます。
私はあれを見るたびに、本当にそんなふうに切り売りしてよい話なのかと思ってしまいます。まして「死にたい子への対応」を、数分でまとめて、わかりやすく、すぐ使える知識として流すことには、かなり強い違和感があります。三分クッキングじゃないんだから、と思うのです。

実際、そういう動画を流していた著名な支援者に、私は否定的なリポストをしたことがあります。するとご本人から“いいね”がつきました。
私はそれを見て、心の底から気持ち悪いなと思いました。人間というのは否定されたら無視するか反論するべきです。ちょっと話が脱線しますが、これは暴力の対応も同じです。「気持ちが発散できてよかったね」などと伝えたら暴力を振るった本人は混乱します。そこはやはり「暴力を振るわれたくない」とNO!と伝えなければなりません。このように不登校界隈では「気持ちの悪い対応」が、なぜかまかり通っている。

 

気持ちの悪い支援者は私が不登校だったことから存在するのですが、気持ち悪いほど整った笑顔で、わかってますよ、受け止めますよ、という顔で近づいてくる。当時「薄気味悪い笑顔を貼り付けて近寄ってくるババアたち」と私は呼んでいましたけれど、まさしくその感じを思い出しました(これが通用するのは小学校低学年ぐらいまででしょうね。大きい子たちは見抜いてくると思います)

 

こちらの痛みや混乱や怒りを、本当に自分の身に引き受けるわけではない。少し距離を置いた安全な場所から、“受容”っぽい感じでこちらを見ている。その感じが、私は昔からとても苦手でした。だとしたら、淡々と診察をしてくれて時にはイライラしながら頭を掻きむしり素っ気ない態度を取る主治医の方が私は親近感を感じていました。

 

支援者というのは、何でも受け入れる存在であっていいはずがありません。
腹も立てるし、疲れるし、嫌なことを言われたら傷つくし、怒ることだってあるはずです。むしろそれが自然です。生身の人間なのだから当然です。全部を笑顔で受け止める、全部に理解を示す、いつでも穏やかで正しい、そんなものは支援ではなく、演出に近いと私は思っています。

 

子どもだって、同じように親御さんの本音を見抜きます。
大人が“お手本通りの正しい対応”をしているのか、それとも本気で自分に向き合っているのか。そこは驚くほど伝わります。だから何か問題が起こるたびに「この対応で合っているのか」と検索して、正解を探し、動画を見て、その結果、親のリアルな感情が薄まってしまうことのほうが、私は心配です。

困る、嬉しい、怖い、悲しい、腹が立つ、助けたい。
そういう生の感情には賞味期限があります。その場で立ち上がったはずの感情が、検索と正解探しのあいだに薄まり、均質な“AIみたいな対応”になってしまう。すると子どもには届きません。
「なにそれ、YouTubeで見たの?」
実際にそのような発言をした子もいました。

 

ちなみに、登校しなかった子に対して失望した顔をするのはNGですよ。

日常生活の中の喜怒哀楽の話です。

 

不登校の対応というのは、そもそも悩むものだと私は思っています。
悩んでいるから間違っているわけではありません。反対に、確信に満ちているから正しいとも限りません。世の中には、まるで答えを知っているかのように迷いなく語る人もいますが、私はむしろ、そういう確信の強さのほうに危うさを感じることがあります。子育ても、不登校の対応も、本来はそんなに単純なものではないはずです。

人生には、すぐに取り出せる正解なんてありません。私自身も、悩みながら子育てをしています。ああでもない、こうでもないと迷いながら、それでもその時々で考え、選び、引き受けていくしかない。だから私は、悩みながら進んでいる親御さんに、自分はだめなのだと思わないでほしいのです。

 

悩むことは、真剣に向き合っている証でもあります。
だからこそ、正解を外に探し続ける前に、一度立ち止まってみてほしいのです。自分は母としてどうありたいのか。何を大切にしたいのか。我が子にどんなふうに向き合いたいのか。外の“正しさ”に振り回される前に、まずは自分自身とゆっくり対話してみてほしいと思っています。

 

不登校は休んで治すもの。でも生死だけは別。

そもそも不登校は、心の傷です。
まず必要なのは、安全な場所で休むこと。休んでいれば心の傷は自動的に修復していきます。そして傷が塞がってきたら、楽しいことをして、好きなことをして、その子の中に元々ある好奇心やエネルギーを使いながら、時間をかけて立ち上がっていきます。だから基本は、邪魔をしないことです。嫌なことを無理にやらせれば、回復は遠回りになります。

この部分については、繰り返しになりますが、親の性格や思想の違いはそこまで大きくないのではないかと思います。寄り添いすぎか、厳しすぎるか、過保護か、自立を促しすぎか、そういう違いよりも、その子が家庭の中で安心して傷を癒やせているかのほうが、ずっと大事です。

 

ただし、ひとつだけ別の話があります。
それは、生死に関わる局面です。

「死にたい」は、そんな簡単にまとめられるものではありません。
私はこの領域になると、いつも神経を使います。何を言うかという以前に、どこまでその子の人生に向き合えるか、どこまで親が現実にぶつかれるか、そこが問われるからです。これは小手先の受け答えではなく、人生をかけた衝突だと思っています。

だから私は、死にたい子に対して親御さんに伝えたいのは、気の利いた言葉ではありません。
リアルにぶつかってください、ということです。
うまく言おうとしなくていい。正しく対応しようとしすぎなくていい。取り乱してもいい。情けなくてもいい。ただ、この子を失いたくない、この子を守りたい、その感情だけは薄めないでほしいのです。

 

不登校の対応は、時間をかけて心のひびを治していくことです。好きなことしかしない時期があっていい。子どもが本来持っている回復する力を信じて、余計な邪魔をしないこと。
でも、生きるか死ぬかのところだけは別です。そこでは親の理性や知識より先に、感情むき出しで守りにいっていい。

私は、それが親にしかできないことだと思っています。

 

ちなみに感情むき出しに守りにいっていいという私の対応法は、スタンダードではありません。

今の医療や心理の支援では、希死念慮のある人に対して、まず否定せず、気持ちを受け止め、刺激しないことが重視されているように思います。もちろん、それ自体には意味があるのでしょう。頭ごなしに説教したり、感情的に追い詰めたりすれば、かえって危うくなる場面があると言いたいんでしょうが、私は、リスカの場面でかなり感情的にぶつかった親子がどうかなってしまった例に遭遇したことがないんですよ。

だから親まで“気持ちの悪い笑顔で共感する人”になってしまうことには強い違和感があります。死にたい気持ちを口にしている我が子に対して、まるで訓練された支援者のように、整った表情で、傷つけない言葉だけを選び続けることが、本当にその子に届くのか。私はむしろ、届かないことのほうが多いのではないかと思っています。

無菌的な“受容”だけを差し出す関わりには、私はどうしても不気味さを感じます。少なくとも、生きるか死ぬかの場面でまで、ロボットのように整った対応を目指さなくていいと私は思っています。この子を失いたくない、守りたい、ここで死なせたくない。その感情が剥き出しになることまで、悪手だとは私は思いません。

 

また、今の医療や心理の支援では、死にたい子は診てくれないことがあります。

共感を示し、「話してくれてありがとう」と伝えた先にあるのは、医療からの「受診拒否」

 

BMI20以下ということは160cmの場合51kg以下は診ないということになりますし、暴れてしまいそうな衝動を持っていることが多いASD /ADHD男子も診れないとなると、いったいどんな子どもがターゲットなのか。ここまで極端な児童精神科クリニックも珍しいのですが、摂食障害を診ないというクリニックはよく見かけます。

 

ちょっと長くなってしまったのでこのあたりで終わりますが、

何が言いたいかというと、もう少し、親御さんたちは自信を持って、関わっていただければと思います。

 

 

 

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