戦跡探訪002.旧近衛師団司令部庁舎 | tantanlovejapanが伝えたい話

tantanlovejapanが伝えたい話

ナイトウォーキング、夜景、神社仏閣が好きなプロカメラマン「タンタン」です。

戦跡探訪002.旧近衛師団司令部庁舎

こちらも地元千代田区の戦跡です。

千鳥ヶ淵さんぽみちを通り抜けると、左方向にレンガ造りの建物が見えて来ます。

 



旧近衛師団司令部庁舎です。

 


昭和20年(1945年)終戦反対派の近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件である宮城事件(八・一五事件)の舞台の一つとなりました。

 



建物は明治四十三年(1910)年竣工。
設計は当時の陸軍技師で、多くの軍事関連施設を手掛けていた田村鎭が担当しました。

 



二階建て赤レンガ造りの建物は、正面中央の玄関部分には八角形の塔屋があり、屋根はスレート葺きの、簡素なゴシック様式。
明治当時の形態が残されている数少ない明治洋風建築です。

 



関東大震災や第二次大戦をくぐり抜けてほぼ完壁な姿を残しています。

 



とはいえ...
私が子供の頃には放置され荒廃しきっており、さながら幽霊屋敷、ドラキュラの城のような風情でした。

 



今の柵の辺りには数メートルの高さまで丸太が組まれ、侵入者を拒む有刺鉄線が張り巡らされていました。

殆どの窓ガラスは割れ落ち、レンガもボロボロでした。

友人達とボールとバットを持ち、北の丸公園の駐車場で夕方まで野球の真似事をし、薄暗い幽霊屋敷のような近衛師団司令部庁舎の方は絶対に見ないようにして家路を急いだものです。

終戦によりその役目を終えた近衛師団司令部庁舎は、ある時期から皇宮警察職員宿舎として利用されていましたが、私が3歳の昭和38年(1963年)以降は空き家となり、その3年後には取り壊しの計画までありました。

北の丸周辺まで友達と遠征するようになったのは10歳前後からですから、その時すでに約7年放置されていたのです。

 



その後、明治洋風建築の典型であると取り壊しを惜しむ声が上がり、建築家らが保存運動を実施。
昭和47年(1972年)には国指定重要文化財として残されることになりました。

翌昭和48年、私が中学生になった頃に保存運動を率先して行っていた建築家の谷口吉郎の設計により改修工事開始。



昭和52年(1977年)には一部を改修し「東京国立近代美術館工芸館」として利用開始、石川県へ移転の為2020年2月28日に閉館しました。

現在は柵の外からしか見ることが出来ません。