5/16(木)

 

仕事後、帰宅して「素顔のままで」10話を見る。あそこまで波乱万丈あってようやく結ばれたのに、絵本作家として成功していく安田成美に嫉妬して、「このままじゃ俺はダメになる」と彼女と離婚してニューヨークでミュージカルの勉強をしたいとか、マジでクソたわけたことを言い始める東幹久。「こんなに大好きなのに、なんで一也さん(東)と別れなくちゃならないの⁉」と東の胸で泣きじゃくる安田成美の姿にこっちの涙腺も決壊する。マジで許せない…この放映当時に街中で東幹久を見かけたら「ふざけんなバカ!」と本気で殴ってしまっていたかもしれない…。このあたりの、才能のある女性をパートナーに持つことを受け入れられない男性像、というのは当時新進気鋭の脚本家だった北川悦吏子のかなりリアルな実感が込められていると思う(おそらく、30年後の現在でも普遍的なハナシだろう)。

 

5/17(金)

 

仕事後、帰宅して「素顔のままで」最後の二回分を見る。最終話の衝撃展開は、同時代ではご都合主義的に見えてしまったかもしれないが(今私が手元に持っている「特集アスペクト66 TVドラマオールファイル 90`s民放版」という99年発行のムック本ではこの部分も含めて本作を「『フォーエバー・フレンズ』のパクリ」で「がっかり」だと断じている)、後に北川悦吏子自身がこのドラマの安田成美と類似した病を抱えて生きてきたことを公表したことを踏まえれば、これはご都合主義的どころかこの人の「リアルな実感」であり、「本当に描きたかったこと」であったのだと思う。ただ、連ドラデビュー作ということもありあまりに「描きたかったこと」が出過ぎて、唐突な印象は否定できない(これは予想なのだが、このドラマを同時代に愛して夢中で観ていた人ほど、この衝撃展開を受け入れられず記憶できなかったのではないだろうか)。演出でカバーできたことかもしれないし、そもそも現場レベルで俳優たちがどういう気持ちで演じていたのか、気になるところである。

 

最終話で本当に人を感動させるのは、怒涛の「泣かせる」展開ではなく、本当に些細なシーンの細やかな描写である(これはこのドラマ全体にも言えることだ)。命の危険を犯してまで出産を決意した優美子(安田成美)。カンナ(中森明菜)に「優美子の赤ちゃんなんだから、きっとカワイイんだろうな」と言われて、「そうに決まってるじゃん!」といたずらっ子みたいに笑う安田成美の表情、忘れられない。

 

『この愛に生きて』はたぶん自分の人生で何度も立ち返るドラマだけど、『素顔のままで』はただただ誰か大切な人と分かち合いたくなる作品。