カントリージェントルマンという生き方  ※町田・鶴川 | 東京の遊び方 (東京稲城で里山暮らし、時々都会)

カントリージェントルマンという生き方  ※町田・鶴川

戦後の混乱期に、政治家でもなく役人でもないのに、その後の日本のあり方に大きな影響を与えた独りの日本人がいました。吉田茂の懐刀として、戦後の米国との交渉にあたり、良くも悪くも現在の日本の礎となった人です。彼の名は 白州次郎。彼の生き様は プリンシブル(筋を通す・原則をつらぬく)な生き方をすること。多くの人は、彼の事を カントリージェントルマン と呼びました。

カントリージェントルマンとは、騎士道を心得たイギリスの貴族のライフスタイルです。
そもそもイギリスの貴族は地方に膨大な財産を持ち、普段は農業なんぞをやりながらのんびりと暮らしています。しかし、国家の危機においては全てをなげうち、都へ駆けつけ、お国のために尽力を尽くす人の事を言います。日本においても 「いざ、鎌倉」 と言う言葉がありますが、それに似たような生き方なんでしょう。

白州次郎は兵庫県芦屋の富豪、白州商店の御曹司として生を受けます。写真でしか見たことがありませんが、かなりの男前で、しかも大金持ちで頭脳明晰。
若い頃、イギリスのケンブリッジ大学に留学し、10年間にわたり カントリージェントルマン としての生き方を学びます。
イギリス滞在中に当時イギリス外交官であった吉田茂と知り合い、吉田と共に戦後の日本の復興に邁進します。

そんな白州次郎が カントリージェントルマン として日本で選んだ終(つい)の棲家が、町田市鶴川にあります。先日、白州次郎の生き様に触れてみようと出かけてきました。



武相荘 (buaisou) 
町田市能ヶ谷 7-3-2
042ー735-7532


武蔵野国と相模の国の境目に位置する所にちなんで、白州自身が名付けた名前だそうです。無愛想 とも掛け合いになっていて、白州次郎お気に入りの名前だったようです。





そもそも白州次郎の名前をご存知無い方もいらっしゃると思います。白州次郎には様々な武勇伝やエピソードがあるのですが、一番有名な仕事は、GHQから、英語で提示された日本国憲法を日本文に翻訳した人です。





現在でも、憲法の日本語が問題になったりしていますが、白州本人は、イギリスでの生活が長かったせいか、日本語より英語の方が得意だったようです。酔っ払うと会話が英語になっていたようです。私自身、大いなる白州ファンなのですが、憲法問題だけは評価が低いです。

しかし、敗戦ショックの日本の中において、日本としての筋を通し、GHQに対し一歩もひかず 「従順ならざる唯一の日本人」 として本国に報告されたほどの人です。





小田急線 鶴川駅から山の方へ15分ほど登って行くと、左側に見えてきます。多少、入口がわかりにくいのですが、ユニクロの先を左に入ると、見えてきます。





かやぶきの母屋は、日本家屋としての重厚感がそのまま感じられます。





当時の姿のままに残る車庫には、白州次郎が旧制中学の時代(現在では高校生)に乗っていたのと同型の ペイジ が展示されています。
イギリス時代には ベントレー を乗り回し、帰国後はポルシェ911 を愛車として乗っていた、筋金入りの オイリーボーイ(スポーツカーマニア)だったようです。

家の中での撮影は禁止になっているので、NHKがドラマで再現した写真で内部を見てみましょう。





驚くほど、寸分たがわず制限してあります。





実際は、生前使用していた愛用品が数多く展示されています。

離れの食堂はカフェに改造してあり、食事も出来ます。メニューはチキンカレーとシーフードカレーの2品。





千切りキャベツにルーをかけて食べるのが、白州次郎風の食べ方だそうです。2000円弱とお高いカレーなのですが、食べれば納得のお値段です。


イギリス留学中に父親の会社が倒産して、窮地にたたされるのですが、自力で仕事を手がけみごとに復活します。40歳の時には仕事から引退し、カントリージェントルマンの道を歩みだすのですが、戦後の混乱期には、吉田茂の要請により日本の窮地に際し再びその辣腕をふるいます。

普段はジェームスディーンを彷彿とさせる、ジーパンにTシャツ姿で農業を営んでいますが、公式の席では英国式紳士のスタイルを貫き、誰に対しても絶対に卑屈にならなかった。これが男の かっこ良さ なのかもしれません。

同じ頭が良くて、お金を持っていても、ここいらが ホリエモン とは全く違うところですね。

もうすでに時遅しかもしれませんが、こういう かっこいい男 を目指したいですね。