今週の「暮らしの古典」は89話「身売り話」です。
澪標住吉神社の澪標の由来について*大阪市HPに次の記述があります。
大阪市此花区澪標住吉神社 (…>此花区はこんなまち>此花区のみどころ) (osaka.lg.jp)
◆社伝によれば、
延暦23年(804年)遣唐使の航路安全を祈願して祭壇を造り、
一行の帰路を迎えるため澪標を立てたのがはじまりという。
当地が伝法口として賑わうとともに、
土地の守護神・海上交通安全の神として社殿境内も改まり、
今もその面影を留めている。
平安時代の遣唐使の事績に事寄せています。
『此花区史』1955年にある、五、六百年前「当時地形が海岸に接し、
川が海にそそぐ地点に澪標が建てられ…」とある時代とは異なります。
「日本を楽しむポータル&コミュニティサイト」の記事や如何?
https://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=10139
◆当地は、浪華八十島の1つで、
延暦23年(804年)に遣唐使の一行がこの島の景勝に感激し、
航海の安泰を祈願するために島の一角に
住吉神を奉祀したことに始まるとされる。
その後、島民が祭壇跡に祠を建立して
帰路の印に澪標を建てたと言われ、
当地が酒造の本場として栄えるにつけ、
その存在は航海の守護神として全国に知られることとなった。
遣唐使一行が「この島の景勝に感激…」と物語化しています。
これと似た話は高槻市の冠地区「大塚の地名伝承・「大塚殿」」
≪「高槻まちかど遺産 H27-6≫にも見られます。
写真図1 大塚の地名伝承 「高槻まちかど遺産 H27-6
◆大塚には次のような伝承があります。
平安時代、清和上皇が諸国を巡られた際、
当地で淀川の美しい風景に心を奪われ、
松の木に掛けた冠を忘れたまま、帰ってしまわれた。
気づいて村人たちは恐縮し、冠を埋めて「王塚」と名付けた。(中略)
大塚の地名は、この「王塚」が転じたものともいわれています。
平成28年3月 高槻市教育委員会
ここに取り上げました「伝法」、「大塚」は何れも伝説です。
伝説化されていない、澪標住吉神社の澪標建立の事情を
『大阪港』1913年、大阪市役所港湾課の記事に探りました。
写真図2 『大阪港』表紙1913年 国立国会図書館デジタルコレクション
◆明治元*(1868)年大阪開港条約の発市(*発布?)と共に、
政府は治河使に命じ、航路を浚渫し、安治川左岸海口より、
約400間の導堤を築き、澪標を設けて船舶の出入りに便せり。
『大阪湊口異船舶来之図』嘉永7(1854)年に天保山沖に描かれていた
現在の大阪市章のモデルとなる澪標が安治川左岸海口に設けられました。
新政府によって「安治川左岸海口より、約400間の導堤を築き、澪標を設け」とあります。
川浚えして旧標識を更新したのでしょうか?
引用文を続けます。
件の伝法の地名に注目してください。
◆明治3*(1870)年閏10月、西四辻権知事政府に請ふて、
安治、木津、尻無、伝法の四川に入津する、船舶に帆別税を課し、
海口及諸川の浚渫に充て翌4*(1871)年川口波止場を設けて、
航運上に於ける公共の用に供せしむ、実に是れ富島繁昌の基なりとす。
追って伝法川も浚渫されたようです。
その際の澪標や如何?
伝法でのある噂話が*『小学校記念誌』に記録されています。
*『小学校記念誌』:『大阪市立伝法小学校創立90周年記念誌でんぽう』
1963年「古老に聞く」
:創立80周年記念誌(1953年)からの再録
◆和田*(推定1868年生)
北のお宮さんは澪標住吉神社と称する事は皆さんご承知の通りですが、
ごく近年まで宮地が川岸まであったのですが、
その前はこの宮の灯籠の火が舟の水先案内をしていたので
今天保山にあるような澪標が川下に立っていた。
いつの頃からかこの澪標がなくなって
天保山の方に移ってしまった始末である。
「いつの頃からか」とあって、この記事だけでは
明治3*(1870)年の浚渫時とは断定できません。
引用を続けます。
◆板谷*(推定1870年生)
天保山の澪標は伝法から売られたという噂さえあるのです。
真偽はもとより判明しませんがとにかく由緒のある神社ですよ。
それにしましても「明治末頃まで住吉神社の浜にそびえていた澪標」が
『小学校創立90周年記念誌』1963年に
「伝法の古い思い出」として載っているのです。
はたして伝法のが「売られた」のでしょうか?
「身売り話」となれば、市岡パラダイスの飛行塔を思い起こします。
橋爪紳也著『なにわの新名所』(東方出版 1997年)
「生駒山頂上の大飛行塔」の記事を挙げます。
◆68】昭和6(1931)年に完成した飛行塔。
閉園に際して売りにだされ、生駒山上に移築された。
第二次世界大戦の際も供出を免れた。
現存する日本で最古の飛行塔である。
この記事の市岡パラダイスの飛行塔につきましては、
唯称寺(港区夕凪)住職による
『港区の昔話 増補版』(1984年)の次の記事と対応します。
◆大正一四年、市岡土地会社は土地の繁栄策に
綜合娯楽場パラダイス(*港区磯路)を開設しました。(中略)
後、町全体が充分賑やかになったので
各々の建物は独立して営業するようになりました。
その時飛行塔は生駒山上遊園に移され今も山上で舞っています。
近鉄上本町駅に生駒山上遊園の飛行塔の電光看板が見えます。
写真図3 「生駒山上遊園地」の宣伝
塔の構造、ゴンドラの形など市岡パラダイスの飛行塔は、
似ても似つかない代物です。
写真図4 市岡パラダイスの飛行塔 桧垣宏之氏所蔵
人身ばかりかダンジリなど祭礼の屋台の売買も、
戦前の話として耳にします。
このような「身売り話」は子どもの誘拐事件とともに、
都市伝説にも、よくある噂話のようです。
大阪民俗学研究会代表
大阪区民カレッジ講師
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登