夕陽のツーリズムを話して | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

先週土曜日3月5日
浦江塾で「大阪の夕陽信仰-水際の情景」を
話してきました。
30名程の熱心な聴講者を前に
さまざまな画像を軸に
約100分間、一気に話しました。


聴講されたお一人の西 保國さんに感想をお願いしました。

●日想観は仏教の話に留まるものではない。
 それは自然への憧憬、
 浮世の苦しみの表出、
 亡き人との交流など
 昔から人間が織りなしてきた生き様に深く関わっている。
 夕陽信仰は、
 言伝え、古文書、名所図、謡曲、和歌などに見られるが如く
 大阪人の心の襞の奥深く
 重層的に根付いている。
 いや、それだけではなく、
 ツーリスムスの切り口から
 これからの大阪にとっても
 貴重な財産であることを知ったことであった。


以下、田野による書き込み。
ボクが夕陽に心を寄せたのはいつ頃からでしょう?
はっきり記憶しているのは
1966年、市岡高校2年生の秋のことです。
ビートルズが日本にやって来たのは
この年の6月末でした。


自転車を漕いで何度も
淀川の堤防まで出かけたものでした。
堤防の涯には

酉島のガスタンクがあった時代です。
六甲の山並みに沈む夕陽を
ひとり眺めてました。

スパイダースの「夕陽が泣いている」が

流行ってました。
50年も前のことです。


何のために夕陽を見に行ったの?
それは50年後のボクでも
はっきりわかりません。
言うのが恥ずかしいのです。
その頃読んだ
サンテックスの『星の王子さま』では
淋しいときほど夕日を見たいのだそうです。
今思えば思春期にありがちな
情緒不安の時期でした。


人は夕陽を眺めて
どんな気持ちになるのでしょうか?
本ブログ「禅寺で「日想観」の聖地を話します」では
ある方のことばを引用して
「自然に敬虔な気持ちと感謝の念」なのかなと
思いました。
    ↓ここをクリック
http://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12133067306.html


西さんが記された
「自然への憧憬」、「浮世の苦しみの表出」
「亡き人との交流」なのかもしれません。

50年後のボクは
大阪の夕陽の情景を
四天王寺の日想観の勤行を端緒として
解明しようと試みました。
あるいは浄土教といった仏教の
教義以前の世界観に
触れるチャンスがあったかも知れません。

写真 四天王寺西門を出た逢坂の夕陽



大阪という都会は
せせこましくて

喧噪に満ちた場所と思われています。
水際の空間に立つ時、
黄金に輝く夕陽を眺めるスポットが
大阪にはいくらもあります。


現にボクが大阪の夕陽を話すと言ってから
ここも良い、かしこも素晴らしいといった
知り合いからの反応がありました。

ツーリズムとは「観光」と訳されますが、
日頃、気づかない何かを求めて
グルッと回遊して来ることです。

夕陽を眺めるツーリズムは
先人のごとく来世を想うよりむしろ、
来し方に気づかせられる
ノスタルジックなものかもしれません。


帰るべき場所を探す自分に
気づかせられます。

何者にもとらわれず
心を癒やす間(ま)を求めているのです。


人生も白秋にあって
日想観を夢む自分に
青春を回想するボクが
いることに

気づかせられます。


究会代表 田野 登