胃ろう論議の記事、特集を耳にする最近。
大事なことだと思います。
我が家は大正7年生まれのひろちゃんが認知症で脳出血を発症、
入院中、鼻からチューブを通して栄養補給…
しかし、鼻に変な管があるなんて!
認知症という正直者には堪えられるはずもなく
素直な気持ちで取ろうとするので「ダメよ」と
頑丈なミトンを着けられてしまいました。
鼻に管があってがんじがらめ、
そんな状態ではプイと心を閉ざすのは誰でも一緒。
麻痺のせいで反応が無いのか、
ご機嫌斜めで反応が無いのか全く見当つかず(失語症)
嚥下リハビリだって出来ないじゃない!
何よりまず鼻のチューブをとりたくて、
PEGの存在にはすぐに飛びつきました。
そして在宅介護、
PEGを卒業=半年後の交換の時に除去を目標に
本当に必死で嚥下リハビリ、
カンペキに口からのご飯を実現しました。
栄養剤は2ヶ月ほどで卒業しました。プロは皆驚嘆しました。
でもこれが本来のPEGの真骨頂、なぜ驚くのでしょう?
それは使い方がズレている事実を
知っているからなのかも知れません。
半年後、PEGは残しました。
水分補給のためです。脱水症状、熱中症、風邪・・・
どれも水不足が引き金に。
水補給は口からでも出来ましたが
必要な量を飲ませてあげるには
1日の全てを介護に費やすことになります。
私達家族の時間コントロールと
本人の体力の消耗防止のため使っています。
私達にとってPEGは持病薬と同じ存在であって
延命装置ではありません。
しかし、延命装置として使えることは知っています。
だから、臨終への我が家流ガイドラインは用意しています。
それが在宅介護を始める際の一番重要な準備だと思います。
PEG歴2年、救急車のお世話にならず往診も2ヶ月に1度、
ヘルパーもナースも無し。
それはPEGがあったから実現したこと。
最初に完璧なリハビリを家族がしたから実現したこと。
(最初の完璧なリハビリをプロが施すシステムは現状では無いのです。)
そして、最後に、
施設にせよ、訪問にせよ
「お金をもらって仕事としてたずさわり、
時間が来れば介護と無縁の家庭に帰れる人」
が関わる以上、
事故死のリスクを負うことを家族は覚悟します。
家族の起こす事故と専門家の起こす事故の質の違い、
それは本当に 違う ということ。
その悲しみと悔しさを味わう覚悟。
感謝の笑顔の裏でいつも相手に緊張の眼
を向けなければならない辛さ。
福祉を志す方は優しい、それが命取りになる
そういう一面があることを社会が知っていて欲しい。
事故を経験した専門家は「辛くない」はずは無い、
でも辛さを「経験」というフォルダに入れなければ
明日の仕事は出来ない。
私は決していじわるではないけれど優しいとも思わない。
冷徹と思うほど冷静でなければ人の命は守れない。
「優しいのね~」としみじみ言われることも多いけれど
優しさで乗り越えられるほど介護は甘くはないから。
だから家族は限界を超えて頑張る。踏ん張る。
命のボールが落ちる前に絶対に拾ってみせる
という執念があるから。
事故の辛さが入るフォルダは「後悔」だから。
それでも「明日」はやって来る。
金銭が価値の対価なら家族への対価は専門家を超え得る。
けれど仕事ではないから一銭もお金は入らない。
その「アンバランス」に私は不満をもつのです。
お金のことを考えたら
「とてもとてもゆるやな坂にボールを置く」必要がある。
でもそれは、確かに坂なのです。
坂の先には何があるのでしょうか。
ボールを胸に抱き守り続ける真剣な家族ほど
経済的な過酷さに直面する。
精神的な限界に達する。
その分かりやすい事実に目が向けられていない。
研究対象になるべきは
在宅介護の家族の潜在的な医療技術の高さだということに
気づいて欲しい。
なぜか?専門職にある方々のライフスタイルでは
在宅介護は不可能だから。
在宅介護を経験することが出来ないから。
そこに日本の福祉の根本的な問題があるのだと思います。