新田次郎にはまってるんだったら、既読ですか。未読だったら、おすすめの一冊。
 
 霧の子孫たちイメージ 1
  
 霧ヶ峰ビーナスラインなんて、麗しい名があるけど本名は「霧ヶ峰有料道路」。
 茅野市街→蓼科高原→白樺湖→霧ケ峰高原→美ヶ原高原。全長76kmの高原ドライブウェイ。
 
 1967年に霧ヶ峰線が一部開通し、その後も工事が進みました。
 その工事の過程から、地元諏訪の人たちが反対運動に立ち上がり、コースを変更させ貴重な八島七島(やしまななしま)湿原や旧御射山(もとみさやま)遺跡を道路開発から守ったという経緯があります。
 「霧の子孫たち」はその運動に奔走した人たちを主役にしたものです。
 当時、武甲山の石灰岩採掘が進む中で、なにか身近に感じたものでした。で、我が山岳会仲間は回し読みし、酒の席で自然保護活動への熱い思いを語ったものです。
 もちろん、恩師が提唱した活動にこぞって参加しました!
 
 ここでは「霧の子孫たち」文藝春秋ハードカバーの新田次郎さんの後書きを転載しますね。


 あとがき
 
私の故郷は霧ケ峰の麓、諏訪市角間新田である。角間新田の次男坊に生れたので、新田次郎というペンネームをつけた。
霧ケ峰への登山口は幾つかあるが、奥霧ケ峰へ行くには、私の生れた角間新田を通って行くのが一番近道である。霧ヶ峰には子供のころから親しんでいて、故郷即ち霧ケ峰と云っても嘘でないほど、霧ケ峰と私とは切り離すことのできない関係にあった。私に限らず諏訪地方に生を享けた人たちは、ほとんど同じような考えを持っているだろう。その霧ケ峰に有料自動車道路が出来た。なだらかな起伏が続く大草原が、コンクリートの道路によって分断されたのみならず、その延長路線が、旧御射山(もとみさやま)遺跡と七島八島(ななしまやしま)の高層湿原地帯を通る予定だと聞かされたときは、身体が震えるほどの怒りを覚えた。なぜ貴重な自然や遺跡を破壊してまで、観光目的の有料自動車道路を造らねばならないのだろうか。私は長野県の方針に疑問を持った。
諏訪の自然と文化を守る会を主催している藤森栄一氏からその実情を電話で知らされた夜は眠れなかった。このような観光開発なるものが進められて行けば、ここ数年を出でずして長野県の自然は亡び去り、日本全国の自然もまた亡びてしまうのではないかと思った。それは、直接、日本民族の滅亡にもつながることのように思われた。
地元の人たちが反対運動をすると聞いて、藤森栄一氏に、私にできることがあったらなんでもしましょうと云ったところ、ただ君の率直な意見を寄せてくれればいい。諏訪のことは諏訪の人たちが力を合わせてなんとか解決するつもりだということだった。その決意のほどが言葉の裏に現われていた。
有料道路反対運動に立ち上った藤森栄一氏は考古学者であり、青木産科婦人科病院の院長の青木正博氏はアマチュア天文学者であり、牛山正雄氏は諏訪清陵高校の理科の先生である。三人とも私の古くからの友人であった。この三人のほか、この反対運動に参加した顔ぶれを見ると、それぞれ諏訪地方の文化連動の先頭に立っている人たちだった。この人たちならきっと初志を貫徹するだろうと思った。そして、その予想どおり、この運動は次第に底辺を拡げ、終に、路線変更に成功し、七島八島の自然と旧御射山遺跡を破壊から救うことができたが、犠牲もまた少くはなかった。
自然破壊の問題は各地に起こっており、日に日に日本の自然と文化遺産が観光開発の名のもとに失われて行く中にあって、諏訪における、反対運動の成功はまことに珍しいことであった。
私はかねてから観光公害に対する抵抗のあり方を含めて、自然と人間の因果関係のようなものを、なんらかの形で書きたいと思っていた。たまたま郷里に持ち上ったビーナスライン問題は絶好な材料となった。
 霧ヶ峰のことはよく知っているつもりでも、遠く離れているので、思い違いや霧ケ峰自体の変貌もあって、いざ書き出すと、しばしば霧ケ峰を訪問しなければならなくなった。これが私の望郷の念と自然を破壊する者への怒りを煽る結果となった。
 資料の蒐集や取材に当っては、藤森栄一、青木正博、牛山正雄、市川梶郎、河西正敏の諸氏が進んで協力して下さったほか、五味一明、茅野慶次、小平万栄、藤原綱夫の諸氏にも多大の援助をいただいた。
 この小説を書くに当って参照した新聞は、信濃毎日新聞、南信日日新聞、毎夕新聞、湖国新聞、諏訪文化新報等の郷土各紙と各中央紙及び各中央紙地方版であった。この小説は文藝春秋誌上に昭和四十五年四月号から、十月号まで連載し、これに加筆、上梓したものである。