先日、俺たち山賊のスリーショットを紹介しました。
西沢渓谷の一角に建立された、山の大先達・田部重治先生の文学碑建立、除幕式に参加した時の写真のことです。http://blogs.yahoo.co.jp/santensama/27178179.html

書棚で探し物をしていたら、二つ折りのパンフレットを目にしました。B5判4ページ。裏面4ページ目、に1990年5月27日 三富村役場とあった。だから、スリーショットは21年前のと判明。どおりで若いと思った(笑顔)

三富村は2005年3月22日、隣り合わせの山梨市と牧丘町とで合併し、新しい山梨市となった。今は山梨市三富地区。
中面の2ページは、文学碑に刻まれた「笛吹川を溯る」の一節やゆかりの人たちが文を寄せています。


読みやすくして載せます。
笛吹川を溯る
見よ 笛吹川の渓谷は

狭り合って上流の方へ
見上ぐるかぎりの峭壁をなし
其間に湛へる流れの紺藍の色は
汲めどもまつきぬ深い色をもって
上へ上へと続いて居る
流れはいつまでも斯の如き峭壁に
さしはさまれてゐるのだらうか
田部重治
ごあいさつ
三富村長 荻原英昌
三富村は笛吹川の最上流域にあり、秩父山系に囲まれた山岳地帯である。笛吹川上流には西沢・東欧の美しい渓谷と共に、甲武信岳・国師岳・乾徳山等の名峰があります。
本村は平成元年度において「自然と健康あふれる笛吹の里づくり」を推進してまいりました。その自ら考え自ら行なう地域づくり事業の一環として田部重治先生の文学碑を計画いたしました。先生は、英文学者としての道を歩むいっぽう、山と旅を愛し、山岳紀行文の世界に大きな足跡を残しています。とりわけ先生の代表作である「笛吹川を淵る」ぱ、三富村の東沢を舞台に描かれており、先生が受けた大白然の感動をいまなお多くの人々が共有しています。『山と渓谷』に収録されている付記には「東沢の渓谷美は秩父山脈中の至宝でありかつ日本の至宝でもある。願わくぱこの渓谷美をいつまでももとのままにしておきたいものであるJと記してあるように自然の大切さを痛感させられるものであります。
私共、この地域に住む者にとっても、またこの地を訪れる人々にも先生が受けた感動と自然愛護の精神を後世に伝えたく、文学碑を建立いたしました。
本碑を建立するにあたり、絶大なるご協力を賜りました関係各位の皆様に対し、心より敬意と感謝の意を表し、ごあいさつといたします。
山と文学の先達
近藤信行
田部重治先生は大正八年六月七日、慶応義塾山岳会に招かれて「山は加何に子に影響しつつあるか」という題で講演をされたことがある。
山の第一著作『日本アルプスと秩父巡檀』刊行前日のこと、その記録は「登高行」第一号(同年七月)に掲載されたが、先生のこころの軌跡を知る上でたいへん貴重なものである。
そこでは山に登りはじめてからの精神的変化が語られている。山を恐れていた自分が、なぜ山に惹かれるようになったのか。先生の登山は、明治四十一年二十四歳のときにはじまるのだが、日本アルプスや奥秩父での体験をとおして、山に登ることは「絶対に山に寝ることでなければならない。山から出たばかりの水を飲まなければならない」と教えたのであった。ことに甲武信国境山脈では森林と渓谷の美しさを発見し、日本独自の自然のすばらしさを、終生、語りつづけてやまなかった。山と人生と学問を白身のなかで統一されたところから、先生の文学は生まれている。その点、日本近代の山と文学の大いなる先達であった。
私は一度、信州追分の別荘に田部先生をお訪ねしたことがあった。御親戚にかたる村松剛氏、村松英子さんがつれていって下さったのだが、笛吹川の美しい水の流れをみると、そのときの先生の温顔をおもいおこさずにはいられないのである。
(日本山岳会会員・早稲田大学講師)
田部 ( たなべ )重治 ( じゅうじ )一八八四(明治一七)・八・四-一九七二(昭和四七)・九・二二。英文学者、山岳紀行文家。富山県出身。東大英文科在学串、夏目漱石の教えをうけ、卒業後は中央大学、東洋大学、法政大学、海軍経理学校などで英文学を講じた。青年時代より登山を好み、北アルプス、奥秩父の山々に足跡をしるし、一九一九(大正ハ)年「日本アルプスと秩父巡礼」を刊行。
その日本的風土にふさわしい静観的登山は後代に大きな影響をあたえた。ことに「笛吹川を溯る」国語教科書に採択され多くの人々に親しまれた。
著書「山と渓谷」「峠と高原」「わが山旅五十年」「中世欧州文学史」「ペイターの作品と思想」など
近藤信行
山梨百科事典より
ごあいさつ
文学館長 三好行雄
なにしろ戦中・戦後の大学生である。地上を歩く体力を維持するのに精一杯の時代だから、山登りに割ける精力などある筈がなかった。もっとも山に憧れて松本高校に進んだ男もいたか
ら、これぱひとつには資質の問題であろう。美しい風景を眺めるのは好きだが、自然の懐に抱かれて、あの沸たつような独特の匂いや光に包まれるのはあまり好きでない。もちろん、仕事柄、志賀重昂や、小島島水などの名は知っていたし、作品にも若干は目を通している。自力で踏破し、華麗正確な文章で地形・風土・ルートを報告し、山岳文学というジャンルを確立した史的意義は、それなりに評価していた。漱石の講義を聞いたことがある田部重治に山や渓の随
筆類が多いというのも知っていた。その私が縁あって山梨に通いはじめた最初の頃、四方を山に囲まれた盆地からの眺めはやはり新鮮だった。
南アルプスに雪が残る頃。青々と晴れた空を背景に富士が顔を出し、裾野の消えた富士を見るのも珍しかった。同時に、山梨は花の美しい土地である。その印象がまだ見たことのない高山植物への連想を誘ったりした。山と花の美しい山梨に、笛吹川にゆかりの田部重治の記念碑が建つという。まことに時宜を得た計画と慶賀に絶えない。
田部先生の思い出
東洋大学教授 中佐古克 一
「追分の宿に帰ったら、思ひがけず田部重治さんが来てゐられた。………田部さんは本当に追分がお好きらしい。ことにこんなふうに一杯聞こし召されようものなら、誰に向っても、追分のいいことを繰返し語られるJ昭和十二年正月のことです。「教師は暑い夏は東京を避けて涼しい所に行かなければ勉強はできんよ」と口ぐせに言われたことは、昭和の初年に既に実現していらっしゃった。
先生の講義に初めて出席した時外人先生のクラスに間違えて入ったのかと一瞬ギクリとしたこともきのうの印象として焼付いています。この年は「ジュリアス・シーザー」を選ばれ、一年余りかけて読み了えていただきました。昭和
二十九年の新学期のことです。この年大学院新設の準備のお手伝いに阿佐谷のお住居を訪ねる機会に恵まれ、以来幾たびとなく公私にわたり親しく教えを受けることができました。私たちの時代には先生はこわい教授ではなく慈父のやさしさで時間を割いて下さいました。
昭和三十八年先生の愛して止まない秩父にレリーフ建設が決まり二治三日のお伴ができ合わせて栃本の大村さん宅もお訪ねできました。東洋びいきで無位無冠で静かに過ごされたように思える先生にも
悲しみの思い出多く深くして
花やぎ知らぬ生命なりけり
の心境を知って報恩のできぬ悔恨の念を禁じえない現在です。
合 掌