我が庭にある鉢植えのアズマシャクナゲが花開きました。
 「気付いた?シャクナゲ」と今朝、神さんに教えられました。
 早朝出かける日々で、庭に目をやる暇がなかったから、全然気づきませんでした。
 いつもより、花数は多いです。
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 この鉢植えは3代目になるかな。初代は根元周りが太く、樹齢も重ねていたけど、日照りで枯れて久しいです。水やりを怠ったのではなく、暑さにやられたんですからね(推定)。
 
 山の仲間から、十文字峠のアズマシャクナゲは花芽が多いという連絡があったけど、我が家のシャクナゲも花数が多かった。
 田島が原のサクラソウ同様、俺はほったらかしたまんま。丹精してきた山の神に感謝。
 神さんのほったらかしを反省しょぼん
 でもさ、イベント裏方は俺がやらなけりゃ、だれがやる。って気持ちでやってきた一カ月です。と開き直り。
 
 花は早く咲いた一部が色あせてきたけど、まだつぼみがあります。こちらはピンクの色が濃いです。
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 久しくも 見ぬこの谷の 石楠の
   花のさかりに 会えり今日はも
 
 山登りの大先達、群馬県太田市生まれの小暮理太郎さんの短歌です。
 
十文字峠のアズマシャクナゲに逢える日は一カ月を切りました。
 恒例の100円甘酒は今年もやるけど、小屋番の意向で売り上げは全額東日本大震災に寄付するそうです。
 
 
ウィキペェイアからね-----
木暮 理太郎(こぐれ りたろう、1873年12月7日 - 1944年5月7日)は、日本登山家
群馬県新田郡強戸村大字寺井(現・太田市)生まれ。東京帝国大学文学部哲学科中退。田部重治と共に、詳しい地図がまだ作成されていない探検時代の日本アルプス秩父山地に入り、これらの山々の魅力を世に紹介した。単に山に登るだけでなく、山岳展望や登山史の研究、地名の考証にも大きな熱意を示し、人文的な「山岳研究」というべき分野を開拓したパイオニアの一人である。著書『山の憶い出』は日本の山岳書中でも内容の濃い傑作される。明治末期から大正にかけて、東京市内の各所に通いつめてまとめた「望岳都東京」(『山の憶い出』所収)は、東京から見える山々を初めて詳しく明らかにした文章として知られている。職業としては、雑誌『ハガキ文学』や東京市史料の編纂に携わった。
1935年12月、日本山岳会の第3代会長に就任した。登山しては書き、何より山が好きという人で大衆登山家に支持された。田部重治と共に静観派の指導者であった。
1941年1月に日本山岳会が社団法人認可されると、社団法人日本山岳会の初代会長に就任した。1944年5月7日急逝。日本山岳会は副会長の槇有恒が会長を代行した。
金峰山西側山麓の金山平(かなやまだいら)に、田部重治、木暮理太郎のレリーフがある。
 
 田部先生には生前お会いしたことがある俺です。
 山梨の笛吹川にある田部先生の「笛吹川を溯る」という先生顕彰の文学碑除幕式に、雲取山荘と甲武信小屋の代理で俺と龍あにい、相ちゃんが出席。山賊らしく、宴席で飲みまくった。田部先生の親戚で女優の村松英子さんとも話ができたんだよ。きれいな人でした。
 龍あにい、相ちゃんはもういないのがさびしい。あんときの写真探さなくちゃシラー