久しぶりに行きつけの骨董屋に行きました。軒に野積みの箱などから、目を引いたのが桑の板を使ったとおぼしき箱。店員に下ろしてもらったら、おかもちだったけど板は桑の板を模した合板。なぁんだ。
で、店内。俺は刀剣やら絵画とか見て、かみさんは陶器なんかを見てました。。
床に無造作に置かれていた細長い額。役者絵の木版画。すぐに目に入った武将の名前「新田義貞」。そして左右に武将3人。「おっ」と詳しく見たら「畑六郎左衛門」とある。

かみさんは長火鉢に置く長火鉢用の銅製銅壺(どうせいどうこ)を物色中。「かぁちゃん、きてみ」と呼んだ。
「ご先祖様」と時能公を紹介。

かみさんは長火鉢に置く長火鉢用の銅製銅壺(どうせいどうこ)を物色中。「かぁちゃん、きてみ」と呼んだ。
「ご先祖様」と時能公を紹介。
即買いとなりました(喜)
明治十七年の刷り、3枚組。作者は梅堂國政。役者は左から市川権十郎(亘理惣右衛門)市川団十郎(新田義貞)市川九蔵(篠崎伊賀守)片岡我童(畑六郎左衛門)
新田勢の鎌倉攻めで、義貞公は稲村ヶ崎から鎌倉突入を図った。このとき、義貞公は「仰ぎ願くば内海外海の龍神八部、臣が忠義をかんがみて、潮を万里の外に退け、道を三軍の陣に開かし給へ」と龍神・八部衆(天・龍・夜叉・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅・迦桜羅(かるら)・緊那羅(かんなら)・摩喉羅迦(まごらか))に祈って太刀を海中に投じました。その直後に潮は引き、大手の極楽寺坂から鎌倉に攻め入ったと言われます。
絵は、義貞公が太刀を海に投じるところです。
畑六郎左衛門時能(ときよし)さまは武蔵の国は秩父・藤谷淵の生まれ、と伝承があります。16歳で「坂東に敵なし」と言われ、ことのほか相撲が強かったようです。上州の新田氏と結ばれていたらしく、元弘3年(1333年)の義貞公挙兵以来各地を転戦、新田十六騎の一人として、敵方には恐れられいたそうな。左は篠塚伊賀守で、新田十六騎の一人。畠山重忠公の末裔とも言われてます。

唯一の和室、ご先祖様がいる仏壇の上に掲げました。
「なんでも鑑定団」には出しません。かみさんが怒るから
四代 歌川國政(うたがわ くにまさ)
嘉永元年~大正9年(1848~1920)
本名は竹内栄久。11歳で三代豊国の門に入り、師の死後は二代國貞(後の四代豊國)に学ぶ。
明治10~20年の四代國政時代(梅堂國政)の作品が多く、開化風俗や役者絵を得意とした。
嘉永元年~大正9年(1848~1920)
本名は竹内栄久。11歳で三代豊国の門に入り、師の死後は二代國貞(後の四代豊國)に学ぶ。
明治10~20年の四代國政時代(梅堂國政)の作品が多く、開化風俗や役者絵を得意とした。