本能寺で信長が最後を迎えたのが6月2日

光秀の裏切り

信長の諦観

人間50年

49歳で滅っした

第六天魔王

あぁ知らぬ間に信長より長く生きている

沖縄に移住する前は愛知県で数年暮らした

信長研究したかったのが主な理由

特にあまり記事にならない

小牧時代の信長

桶狭間で今川義元を討ち果たしたものの

行き詰まり、清州から小牧に拠点を移した

織田信長(おだのぶなが)ゆかりのまち 小牧(こまき)|小牧市永禄(えいろく)3年(1560)、桶狭間(おけはざま)で今川義元(いまがわよしもと)を攻(せ)めて滅(ほろぼ)した織田信長は、永禄(えいろく)5年(1562)、三河(みかわ)の松平家康(まつだいらいえやす)(のちの徳川家康(とくがわいえやす))と同盟(どうめい)を結(むす)び、美濃(みの)の斎藤家(さいとうけ)を次に攻(せ)めるあいてとしました。そして永禄(…リンクwww.city.komaki.aichi.jp

小牧山城は日本初の石垣の城

城下に城下町が整備された

最初の城の可能性が高い


なんせ信長軍は傭兵が多い

傭兵に給金を与え、城下町内の武家屋敷

傭兵用の長屋に住まわせ

城下町内に並ぶ棚で消費させる

楽市楽座の基礎も見受けられる


小牧への意図は、犬山勢力駆逐にある

織田信清は大したことはなかったろうが

与する比叡山の配下塔野寺僧兵勢力が半端ない

清州から美濃に入ると

犬山から木曽川を利用して南下

ヒット&アウェイ

で、各務原を通り稲葉山城に救援

焼かれてないが、大伽藍があり

相当な兵力を擁していた

また、焼かれた後は未だに散見できる


信忠や信雄を生んだ吉乃は

犬山南部を押さえていた生駒氏の出身

生駒氏は大和時代から馬を中心に商いをしていた

この商家に、蜂須賀氏や前野氏等

川並衆が出入りしていた関係から

秀吉も働いて人脈を広げていく

生駒氏は太閤の時代中老として使え

後、徳川でも雇用されて明治維新を迎えた


さて、苛烈と言われる信長だけど

小牧時代の彼は手紙や贈り物をこまめに

特に部下の妻や子の誕生には気を配す

岐阜以降に部下になった光秀とは違う

感覚が清州、小牧時代からの信長配下とか異なる

そんな気がする


光秀は元々医者兼薬剤師だったようだ

私心なく生きていた

妻も一人だけ、贅沢もしなかったようだ


信長の打擲等々様々な出来事があったかは

不明だけれども、単独で信長を襲撃とは

策がなさすぎる

本能寺の変以降の光秀の緩慢は

彼らしくない

光秀は信長を襲撃したんだろうか

【敵は本能寺にあり】

個人的には斎藤に騙されたと思っている


毎年、今の本能寺に供養に

もう2年になる

行きたいなぁ

コロナは来年、再来年まで

長く続かない事祈ります

おやすみなさい

織田信長氏に合掌