映画で観る「戦艦大和」出撃前夜。 | 戦車のブログ

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戦艦大和、おそらく戦艦の名前を知らない人でも「戦艦大和」の名前くらいは知っているだろう。

 

戦艦大和くらい日本人に知られた戦艦は日露戦争で日本海海戦の連合艦隊旗艦だった「三笠」くらいなものではないだろうか?

 

 

戦艦大和は、大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の1番艦。

 

2番艦の武蔵とともに、史上最大にして唯一46センチ砲を搭載した超弩級戦艦である。

 

建造当初は、世界最大最強の戦艦だった。

 

呉海軍工廠で建造。

 

昭和20年(1945年)4月7日、天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)で撃沈。

 

 

 

映画『戦艦大和』は、1953年6月15日に公開された、新東宝製作・配給による戦争映画である。

 

日本映画で初めて戦艦大和を題材とした作品。

 

原作は吉田満の『戦艦大和ノ最期』。

 

教導として戦艦大和の副長であった能村次郎が参加している。

 

 

大和の造形物は製作費200万円をかけた本編セットや、1/44と1/70の二種類のミニチュアが用意され、新東宝発足以来初めて大規模な特撮となった。

 

配給収入は1億3601万円。

 

 

天一号作戦における戦艦大和とその乗員たちの奮闘と悲劇を描いた作品。

 

 昭和20年4月、軍令部は連合艦隊で残った戦艦大和を沖縄に出撃させる「水上特攻」を第二艦隊に命令した。

 

大和乗組員は、様々な思いが交錯するなかで三田尻沖での最後の夜を過ごす。

 

 

4月6日午後、大和は沖縄に向けて出撃するが、早くも米潜水艦は大和を発見、平文で報告する。

 

大和は偽装のため進路を鹿児島県南方海上を西にとるが、米航空機部隊は7日正午過ぎから曇り空のなか大和に襲いかかる…。

 

 

原作者の吉田満は、大日本帝国海軍における戦時体験をもとにした戦記を残すとともに、日本銀行職員の要職を歴任する傍ら、「戦中派」として独自の著作活動や言論活動を続けた。

 

代表作の『戦艦大和ノ最期』は、映画化、長時間テレビドラマ化もされ、海軍での上官であった臼淵磐も吉田の著作を通しても広く知られるようになった。

 

満19歳となった1942年(昭和17年)の4月、東京帝国大学法学部(現・東京大学法学部)に入学。

 

満20歳となった1943年(昭和18年)10月の学徒出陣により、12月から海軍二等水兵として武山海兵団に入団。

 

翌年1944年(昭和19年)2月に、海軍兵科第四期予備学生となり、7月に予備学生隊として海軍電測学校に入校。

 

同月に帝大法学部を卒業した。

 

 

同年の1944年(昭和19年)12月、海軍電測学校を卒業した吉田は少尉(予備少尉)に任官され、戦艦大和に副電測士として乗艦を命ぜられ電探室勤務となった。

 

満22歳となった翌年1945年(昭和20年)の4月3日、戦艦大和に沖縄への出動命令が下り、吉田も天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)に参加した。連合艦隊はほとんど壊滅し、護衛の飛行機も一機もない中、米艦船に埋め尽くされていた沖縄の海に向け出発した戦艦大和は7日、徳之島西北の沖にいた。

 

 

その運命の日、吉田は哨戒直士官を命ぜられ、艦橋にいた。

 

8回にわたる米軍機約1000機の猛攻撃を受けて、戦艦大和はあえなく沈没した。

 

吉田は頭部に裂傷を負ったものの、辛うじて死を免れた。

 

しかしながら、多くの同胞の死を目の当たりにしたそれらの壮絶な体験は生涯消えることのない記憶となった。

 

 

 

その後、吉田はまだ傷が完治していないまま入院していた病院を希望退院して特攻に志願。

 

同年7月に高知県高岡郡須崎の回天基地(人間魚雷基地)に赴任した。

 

しかし、命ぜられた任務は特攻ではなく、基地の対艦船用電探設営隊長であった。

 

米軍の上陸を迎え撃つため、吉田は須崎湾の突端の久通村という部落で陣地の構築を行なった。

 

 

戦後、父の疎開仲間であった作家・吉川英治宅を訪れ、戦場での体験を話した吉田は、吉川の勧めに従い、帰宅後すぐに「戦艦大和」での体験記録「戦艦大和ノ最期」を執筆した。

 

同作は、自然と文語体となり一日足らずで完成した。

 

大学ノートに鉛筆で書かれたその原稿は、棒線や矢印などの省略記号が多く混ざったもので、吉田はこのノートの記述に肉付けをしながら、別の大学ノートにペン書きで記した。

 

この戦記を少しでも多くの人に読んでもらうため、吉田は友人ら複数にやはりペン書きでノートに書き写してもらい、これらの写本が親しい友人たちに回覧された。

 

 

評論家の小林秀雄の訪問を受けた。

 

小林は、吉田の友人が書き写したノート(写本)を手にしながら、これは立派に一つの文学になっているとして、いま発刊準備中の季刊誌『創元』の第一号にぜひ掲載したいと申し出た。

 

吉田は小林に任せることに決め、小林の指示で検閲を考慮し一部修正などを施し原稿用紙に書き写し、発行を待っていたが、GHQの下部組織CCD(民間検閲支隊)の検閲により全文削除処分となりゲラ刷りが没収されてしまうことになった。

 

小林はCCDに抗議文を出し、白洲次郎からもGHQとの交渉を依頼するなど奔走したが、『創元』に掲載されることなく終ってしまった。

 

出版刊行は、部分的に改稿した上で、独立回復後の1952年(昭和27年)8月に創元社でなされた。

 

戦艦大和沈没までの出来事を著者・吉田満の眼を通してリアルに記述した戦記文学であるが、発表当初から記述の内容や描写に対して指摘や疑問の意見が多く、作品に描かれた表現や逸話について一部信憑性が薄い物もあるといわれている。