映画で観る真珠湾攻撃「トラトラトラ」 | 戦車のブログ

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真珠湾攻撃から8日で80年経つ。

 

真珠湾攻撃の映画を紹介しているが、真珠湾攻撃の映画と言えば「トラトラトラ」だろう。

 

まだCGの無い時代だから本物の零戦とかではないが、飛行機を使って真珠湾攻撃を再現した超大作である。

 

現代の戦争映画とはまた違った迫力がある。

 

 

 

トラ・トラ・トラ!』(Tora! Tora! Tora!)は、1970年に公開されたアメリカの戦争映画である。

 

1941年12月の大日本帝国海軍による真珠湾攻撃をめぐる両国の動きを題材に据え、日本との合同スタッフ・キャストで制作された。

 

1970年のアカデミー視覚効果賞獲得作品。

 

 

英米仏独のスタッフを結集してノルマンディー上陸作戦を描いた大作『史上最大の作戦』が成功したことに気をよくした20世紀フォックスが、ノンフィクション作品、ラディスラス・ファラゴ『破られた封印』(The Broken Seal)を原作に、日米双方の視点から真珠湾攻撃を描こうとした企画。

 

豪腕で知られた当時の社長ダリル・F・ザナックは『史上最大の作戦』をまとめあげた実績を持つエルモ・ウィリアムズを起用して製作がスタートした。

 

製作費は、当初50億円、$22,500,000(81億円)などといわれたが、公開直前の1970年8月と9月の読売新聞には、$33,000,000(118億8千万円)と記載された。

 

公開時の週刊新潮1970年10月10日号では90億円。

 

当時はアメリカでも$30,000,000を超える映画はこれが最後だろう、と言われ、20世紀フォックスとしても社運を賭けたものとなった。

 

 

アメリカ側、日本側双方の場面を別個に撮影して組み合わせる方針であったため、日本側シークエンスの監督に誰を起用するかという意見を求められたエルモは迷わず黒澤明の名をあげた。

 

この話を聞いた当時の黒澤明はそれほど乗り気でなかったというが、東宝の手を離れて黒澤プロダクション(以下黒澤プロ)を完全に独立させた直後という事情もあり、ハリウッドと組んで大作を撮るという話は渡りに船でもあった。

 

 

1968年12月2日、京都・太秦の東映京都撮影所で『トラ・トラ・トラ!』日本側シークエンスの撮影が開始された。

 

先の記者会見は意気大いに上がったが、段々妙なことになった。

 

撮影は最初の一週間は快調に進んだが、12月10日頃から黒澤の疲れが見え12月11日撮影休み。

 

翌日再開され三日間撮影したが、黒澤の疲労が回復せず一週間撮影が中断。

 

この直後、クランクインわずか三週間後の12月24日、20世紀フォックスのプロデューサー・エルモが「黒澤が極度のノイローゼのため、監督を辞退した」と発表した。

 

実際は解任通知を黒澤に送った。

 

20世紀フォックスは、リチャード・D・ザナック副社長を東京に出張させて黒澤と直接話し合って解決をしようと譲歩したが、黒澤プロの日本側プロデューサーで英語が堪能とされた青柳哲郎との連絡がマズく、不調に終わり全て打ち切られたといわれる。

 

 

後任監督を引き受けた舛田利雄は黒澤降板の理由を「思想的なことだとか、金銭的なものだとか、そういうことではなく、メンタルな問題と聞いた」と述べている。

 

同じく後任監督の深作欣二は「[黒澤さんは]きっと素人の演技が思ったようにうまくいかないんでキリキリしていたんだという話を、東映サイドで付いたプロデューサーに聞いたことがありました。

 

「やくざ」のこともあってイライラが積み重なり、予定どおり進まないなかで、夜、突然セットの窓ガラスを木刀で叩き破っちゃったとか。

 

そんなこんなでスケジュールも遅延して、向こうの心配したプロデューサーと話をするんだけど、[……]話をすればするほどこじれていったというような話を聞きましたね。(角カッコ引用者)」と述べている。

 

 

東映プロデューサー・日下部五朗は「東映京都の正門前に赤絨毯を敷いて、毎朝、すでに扮装を済ませた軍人役の俳優たちがそこを通ってスタジオ入りするんです。

 

山本五十六役が立派な車に乗って到着すると、門の脇に水兵の恰好をした男が『軍艦マーチ』をラッパで吹く。

 

何とも荘厳で珍妙な騒ぎでしたね。

 

ある朝、撮影所に行くと、窓ガラスが軒並み割られていまして、深夜、慣れない東映での撮影にストレスが昂じた黒澤さんが暴れてやった仕業と聞きました」などと話している。

 

 

 

撮影のため、米国製練習機のT-6 テキサンやバルティBT-13を改造し、旧日本海軍の航空機が飛行可能な実機として再現された。機種は零式艦上戦闘機、九九式艦上爆撃機、九七式艦上攻撃機で、特に九七式艦上攻撃機はT-6とBT-13をつなぎ合わせて製作されるという念の入れようであった。

 

日本機とは外観の大きく異なる米国機の中から、なるべくシルエットの似た機体を選び、更に現存する実機を大量に調達した上で、飛行に支障が出ない範囲内で大改造を施し、出来る限り“本物”に似せようと工夫を重ねたスタッフの努力は高く評価されている。

 

こうして再現された日本海軍の航空機には多くの米国人スタントパイロットが“日本海軍パイロット”に扮して乗り込み、危険な超低空飛行や空中戦などのアクロバットを繰り返して、迫力あるシーンを造り上げた。

 

 

これらにより、夜明けの空に発艦していく攻撃隊のシーンや真珠湾に向かう編隊飛行、並びにクライマックスの攻撃シーンなどの映像が描き出された。

 

また、墜落していく戦闘機など実写では撮影困難な一部のシーンや、荒波の中を進む機動部隊はミニチュアによる特撮である。

 

 

 

この映画で再現された日本海軍機は、その作りこみにより、現存する実機を除けば日本海軍機に似ている飛行可能な機体であるため、後に作られた多くの戦争映画や欧米の航空ショーにも動員され、日本軍機役で現在も活躍している(本作の“テキサン・ゼロ”は後に『ファイナル・カウントダウン』に再び真珠湾攻撃部隊として登場する。零戦と違い、九九艦爆と九七艦攻は飛行可能な現存機がないため、後年の『パール・ハーバー』にも再び出演している)。

 

 

対する米軍側の軍用機の多くは、実際の戦闘に参加した機体と異なる型式があるものの、当時残っていた飛行可能な機体が各地から集められて実際に飛行シーンや戦闘シーンが撮影されている。

 

 

日本機の空襲により地上で破壊される機体には、実物大セットの他にかき集められた中にあった飛行不可能なスクラップも使用され、撮影用のセットやミニチュアとは一線を画すリアリティを与えている(シーンによってはセットやミニチュアも使用されている)。

 

中でも、編隊飛行のため多数を要したB-17は、森林消火に使われていた機体なども駆り出されて、そのうち一機は一発勝負である片脚着陸のスタントシーンもこなしている。