ノモンハン事件のソ連軍側の動画を観て、戦車を隠蔽する戦車掩体と戦車が掩体に入るシーンは草原に全く戦車が見えない状態にして突然戦車が現れるのを想像して日本兵はどう思ったのだろうか?
この映像は私が現役の頃にモンゴルのドキュメンタリー映画で紹介されていたのをビデオで大隊の戦史研究会で教育用に使われ「戦車掩体は前に掘った土を盛り土にするのではなく切土式にして盛り土にしてはならない」と大隊長殿の指導が入り掩体掘りは切土式で掩体前に土を盛り土にしてはならないことになった。
ノモンハン事件を日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の戦闘」と呼び、モンゴル人民共和国及び中華人民共和国は「ハルハ河戦争(戦役)」と称している。
ソ連・モンゴル側が冠している「ハルハ河」とは、戦場の中央部を流れる河川の名称である(ハルヒン・ゴル)。
ハルヒン・ゴルの戦いの戦いとも呼んでいる。
日本とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境紛争に過ぎないというものであったが、モンゴル国は、人民共和国時代からこの衝突を「戦争」と称している。
このノモンハン事件に至るまでを紹介する。
ソ連はモンゴルと1934年11月に紳士協定で事実上の軍事同盟を結ぶ。1936年にはソ蒙相互援助議定書を交わし、ソ連軍がモンゴル領に常駐した。
モンゴル人民革命軍がソ連の援助で整備され、1933年には騎兵師団4個と独立機甲連隊1個、1939年初頭には騎兵師団8個と装甲車旅団1個を有していた。
こうして満州事変以後、日ソ両国の勢力圏が大陸で直接に接することになり、日本とソ連は満州で対峙するようになった。
初期には衝突の回数も少なく規模も小さかったが、次第に大規模化し、張鼓峰事件を経てノモンハン事件で頂点に達した。
モンゴル側は1734年以来外蒙古と内蒙古の境界をなしてきた、ハルハ河東方約20キロの低い稜線上の線を国境として主張。
満洲国はハルハ河を境界線として主張した。
満洲国、日本側の主張する国境であるハルハ河からモンゴル・ソ連側主張の国境線までは、草原と砂漠である。
土地利用は遊牧のみであり、国境管理はほぼ不可能で、付近の遊牧民は自由に国境を越えていた。
係争地となった領域は、従来、ダヤン・ハーンの第七子ゲレセンジェの系統を引くチェチェン・ハーン部の左翼前旗や中右翼旗などハルハ系集団の牧地であった。
この地が行政区画されたのは1730年代で、清朝はモンゴル系、ツングース系集団を旧バルガ、新バルガの二つのホショー(旗)に組織し、隣接するフルンボイル草原に配置し、1734年(雍正12年)、理藩院尚書ジャグドンによりハルハと、隣接する新バルガの牧地の境界が定められ、その境界線上にオボーが設置された。
ノモンハン事件においてモンゴル側が主張した国境は、この境界を踏襲したものであった。
1934年に満州国外交部が委託した日本人東洋史学者矢野仁一、和田清、稲葉岩吉が収集した古文書や、1937年の6月から10月にかけて満州国外交部、治安部、興安北省の3機関が現地に入って、参謀本部が作成した1⁄100,000の地図を測図し直して、地元の古老などから証言をとりながら、収集した文献資料にある境界オボー跡の発見と、それを結び国境線を確認するといった現地調査を行い、モンゴルが主張する国境線は「歴史的証拠」に基づいているということが確認できたが、関東軍はその調査結果を一顧だにすることなく、ひたすらに自分らが主張する国境線の実効支配を目指していた。
モンゴルと満洲国の国境画定交渉は1935年から断続的に行われたが(満州里会議)、1937年9月以降途絶した。
満洲、モンゴルの両当事者とも、この係争を小競り合い以下の衝突にとどめるべく、話し合いによる解決を模索しようとしたが、両国の後ろ盾となっている日本、ソ連は、この時期、それぞれ極東方面において相手を叩く口実を探しており、「話し合いによる解決」を模索していた満州国・モンゴルの停戦交渉担当者たち(→満州里会議)をそれぞれソ連、日本に通じたスパイとして断罪、粛清したのち、大規模な軍事衝突への準備を推し進めてゆく。
満州方面における日ソ両軍の戦力バランスは、ソ連側が優っていた。
1934年6月の時点で日本軍は関東軍と朝鮮軍合わせて5個歩兵師団であったのに対し、ソ連軍は11個歩兵師団を配備(日本側の推定)、1936年末までには16個歩兵師団に増強され、ソ連軍は日本軍の三倍以上の軍事力を有していた。
日本軍も軍備増強を進めたが、支那事変の勃発で中国戦線での兵力需要が増えた影響もあって容易には進まず、1939年時点では日本11個歩兵師団に対しソ連30個歩兵師団であった。
なお、満蒙国境では、日ソ両軍とも最前線には兵力を配置せず、それぞれ満州国軍とモンゴル軍に警備を委ねていた。
満州事変以後、1934年頃までは紛争といっても、偵察員の潜入や住民の拉致、航空機による偵察目的での領空侵犯程度の小規模なものだった。
1935年に入ると国境紛争の規模が大型化したが、これはソ連側の外交姿勢の高圧化によるとされる。
ソ蒙相互援助議定書の締結もこの時期であり、ソ連軍の極東兵力増加が進んだ。この時期の日本は、陸軍参謀本部と関東軍司令部のいずれも不拡大方針で一致していた。
前線部隊でも、騎兵集団高級参謀の片岡董中佐らが慎重な行動を図り、紛争の拡大に歯止めをかけることに寄与していた。
1935年1月、満州西部フルンボイル平原の満蒙国境地帯で哈爾哈(ハルハ)廟事件が発生。
哈爾哈廟周辺を占領したモンゴル軍に対して満州軍が攻撃をかけ、月末には日本の関東軍所属の騎兵集団も出動したが、モンゴル軍は退却した。
以降、満州軍はフルンボイル平原に監視部隊を常駐させ、軍事衝突が増えた。
6月にはソ連と接した満州東部国境でも、日本の巡回部隊10名とソ連国境警備兵6名が銃撃戦となり、ソ連兵1名が死亡する楊木林子事件が発生した。
10月、モンゴルのペルジディーン・ゲンデン首相が「ソ連は唯一の友好国」であるとして、ソ連への軍事援助を求めた。
12月のオラホドガ事件では、航空部隊まで投入したモンゴル側に対して、翌年2月に日本軍も騎兵1個中隊や九二式重装甲車小隊から成る杉本支隊(長:杉本泰雄大尉)を出動させた。
杉本支隊は装甲車を含むモンゴル軍と遭遇戦となり、戦死8名と負傷4名の損害を受け、モンゴル軍は退去した。
関東軍は不拡大方針を強調する一方、戦術上の必要があれば止むを得ず越境することも許すとした方針を決め、独立混成第1旅団の一部などをハイラルへ派遣して防衛体制を強化した。
1936年1月には金廠溝駐屯の満州国軍で集団脱走事件が発生し、匪賊化した脱走兵と、討伐に出動した日本軍・満州国軍の合同部隊の間で戦闘が発生。
その際に脱走兵はソ連領内に逃げ込み、加えてソ連兵の死体やソ連製兵器が回収されたことから、日本側ではソ連の扇動工作があったと非難した(金廠溝事件)。
張鼓峰事件で陸軍省軍務局など陸軍中央が不拡大方針を採ったのに対し関東軍は不信を抱き、断固とした対応を強調した『満ソ国境紛争処理要綱』を独自に策定した。
辻政信参謀が起草し、1939年4月に植田謙吉関東軍司令官が示達した。
植田謙吉関東軍司令官
要綱では「国境線明確ならざる地域に於ては、防衛司令官に於て自主的に国境線を認定」し、「万一衝突せば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」として、日本側主張の国境線を直接軍事力で維持する方針が示され、安易な戦闘拡大は避けるべきだが、劣兵力での国境維持には断固とした態度を示すことがかえって安定につながると判断された。
この処理方針に基づいた関東軍の独走、強硬な対応が、ノモンハン事件での紛争拡大の原因となったとも言われる。
この要綱を東京の大本営は「正式な報告があったにもかかわらず正式の意思表示も確たる判断も示さなかった」また、関東軍司令部ではハルハ河がソ連との確定された国境線とみなされるに至った。
1939年には紛争件数は約200件に達した。
激増する国境紛争に対応するため関東軍は戦力を増強することとし、関東軍への派遣が決定された1938年に新設されたばかりの第23師団を紛争地の防衛にあたらせることした。
第23師団は支那事変の拡大で師団増設の必要に迫られた日本軍が、通常編成である歩兵4個連隊(定数29,400人)から歩兵3個連隊(定数24,600人)に減少して編成した特設師団であり、慢性的な戦力不足から、通常編成の常備師団と比較すると、予備役招集兵や年長兵により編成され兵器も旧式なものが配備されていた。
小松原道太郎中将
師団長にはソ連駐在武官やハルビン特務機関などを歴任し、ソ連通であった小松原道太郎中将が親補された。
参謀長には騎兵が専門で小松原同様ソ連通であった大内孜大佐が任命されたが、大内は「この師団長のときに、戦いが起こらなければいいが」と懸念していたという。
第23師団は新設師団であり兵士の練度に問題があったため、1938年7月21日に師団に満州派遣の出動命令が下された後は、ハルビン周辺にいったん集結し、付近の警備を担当するという名目で訓練を行った後に、11月から年末にかけて順次ハイラル付近に進出した。
しかし極寒地のハイラルでは冬季にまともな訓練はできず、1939年1月から4月までは戦闘訓練よりは耐寒訓練に明け暮れて、ようやく本格的な戦闘訓練を開始した頃にノモンハン事件を迎えることとなった。
1939年初頭の第23師団は歩兵第64連隊、歩兵第71連隊、歩兵第72連隊、第23師団捜索隊(騎兵1個中隊と軽装甲車1個中隊)、野砲兵第13連隊、工兵第23連隊、輜重兵で編成されていた。
将兵は14,000人、軽装甲車7輌、砲60門と戦力は師団定数を割り込むものであったが、アルグン川を境界とするソビエト、満州国境を起点とした、モンゴル、満州国境線全域の広大な地域の防衛を担当することとなった。