映画「加藤隼戦闘隊」は戦時中の本物の隼戦闘機を使った航空映画としても貴重な作品です。
その映画の中で、パレンバン空挺作戦のため飛行64戦隊が輸送機を護衛するシーンがある。
スマトラ島のパレンバンは蘭印最大かつ東南アジア有数の大油田地帯であり、ロイヤル・ダッチ・シェルが操業する製油所とともに大東亜戦争における日本軍の最重要攻略目標であった。
パレンバンはムシ川の河口からおよそ100キロの内陸に位置するため、陸軍の大発等上陸用舟艇による攻撃では川を遡上している間に油田設備を破壊されるおそれがあり、これを避ける為にはまず空挺攻撃によってこれを奇襲占領し、次いで地上部隊をもって確保する作戦が望ましいと考えられた。
こうして第1挺進団(団長:久米精一大佐)が空挺降下し第38師団主力(歩兵第229連隊基幹、兵力 12,360名)が支援する陸軍初の空挺作戦が立案された。
但し、第1挺進団は挺進第1、第2連隊を有していたものの、挺進第1連隊は1月3日に乗船「明光丸」が積載品の自然発火を起こして沈没し、人員は護衛の駆逐艦に救助されたが兵器資材の全てを失っていた。
この為空挺降下は挺進第2連隊の329名のみで実施されることになった。
2月14日、降下部隊第1梯団の挺進兵らは、挺進飛行戦隊の一〇〇式輸送機やロ式輸送機に搭乗しマレー半島を飛び立ち、直掩機の「加藤隼戦闘隊」こと飛行第64戦隊と飛行第59戦隊の一式戦闘機「隼」等と共にパレンバンに向かった。
陥落直前のシンガポールから立ち上る黒煙がはるか南までたなびき視界は不良であった。
11時30分、降下部隊はパレンバンの市街地北方10キロにある飛行場の東西両側に落下傘降下、同時に久米大佐を載せた団長機が湿地帯に強行着陸し、これは完全な奇襲作戦となった。
これより前、ハドソンやブレニムからなる連合軍の飛行部隊はスマトラ島上陸に向かう第38師団の輸送船団の攻撃に出払っており、これら爆撃機の掩護を終えてパレンバン飛行場に帰還してきた15機のハリケーンは降下前の輸送機群に接近した。
しかしながら飛行部隊も日本軍の空挺作戦発動に全く気づかず、無線交信が上手く使えず断雲で視界が悪い為編隊がバラバラになり、またロ式輸送機を連合軍のハドソンと誤認(ともにL-14 スーパーエレクトラのライセンス生産型および派生型)していたことから迎撃は後手に回った。
不意を突かれた飛行場からは守備隊の高射砲が火を噴き、ハリケーンと第64戦隊の一式戦「隼」との間に空中戦が発生、ハリケーンはマクナマラ少尉機とマッカロック少尉機の2機が撃墜され、また2機が燃料切れで不時着し残りの機は敗走したが一式戦「隼」に損害は無かった(撃墜2機のうち、1機は戦隊長加藤建夫少佐の戦果とされる)。
降下部隊は逐次集結しつつ飛行場へ殺到したものの、飛行第98戦隊の九七式重爆撃機から別投下した火器・弾薬が入手できず、携行した拳銃と手榴弾のみで戦闘せざるを得ない挺進兵も多かった。
市街地からは連合軍の装甲車部隊約500名が到着し激戦となったが、降下部隊は21時までに飛行場を確保した。
翌15日午後、第2梯団がパレンバン市街地南側の湿地に降下し、第1梯団と協力してパレンバン市街に突入、同市を占領した。
戦果としては石油25万トン、英米機若干とその他の兵器資材を鹵獲し、放火により油田設備の一部に火災が発生したものの大規模破壊は避けられた。
死傷者は、降下人員329名中、戦死39名、戦傷入院37名、戦傷在隊11名であった。
第38師団主力も14日にバンカ島に到着、15日に先遣隊がパレンバンに到着した。
師団主力は18日にパレンバンに到着、周辺地域を確保し空挺作戦の目的を完全に達成した。
なお、日本内地においては「強力なる帝国陸軍落下傘部隊は…」で始まる2月15日午後5時10分の大本営発表第192号にて、挺進連隊の活躍とパレンバン空挺作戦の成功を発表、陸軍落下傘部隊は「空の神兵」として大いに喧伝され、のちに作られた映画や軍歌のヒットと合わせて国民に広く知られ親しまれることになる。
1944年3月、東宝映画『加藤隼戦闘隊』として公開された。
山本嘉次郎が監督を務め、陸軍省後援・情報局選定の国民映画として9日に封切り公開され、1944年に最も興行成績を上げた大ヒット作となった。
加藤と第64戦隊を主軸にしたセミ・ドキュメンタリー映画であるものの、第64戦隊が空中掩護したパレンバン空挺作戦も再現され、陸軍空挺部隊の降下・戦闘の各描写が丹念に当映画のため撮影されている。
このパレンバン空挺作戦の撮影には、陸軍の意向で30台の撮影カメラが動員され、カメラマンは画面に映っても支障のないよう挺進兵の降下服姿でこれを行った。