【超大型空母がスエズ運河を通過!】世界一交通量の多い重要水路を航行する | 戦車のブログ

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エジプトのスエズ運河で3月に起きた正栄汽船(愛媛県今治市)所有の大型コンテナ船「エバーギブン」の座礁事故で、コンテナ船の船主責任保険を引き受けている事業者「英国クラブ」は13日付の声明で、スエズ運河庁が損害額として9億1600万ドル(約998億円)を求めていると明らかにされが・・・・。

 

このスエズ運河は空母も通過している。

 

 

スエズ運河は、地中海と紅海をスエズ地峡で結び、アフリカとアジアを分断するエジプトの人工海面水路である。

 

1859年から1869年にかけてスエズ運河会社によって建設され、1869年11月17日に正式に開通した。

 

スエズ運河は、地中海と紅海を経由して北大西洋と北インド洋を結ぶ水路で、アフリカ大陸を回らずにヨーロッパとアジアを海運で連結することができる。

 

例えばアラビア海からロンドンまでの航行距離を約8,900km短縮する。

 

2012年には、17,225隻(1日平均47隻)の船舶が運河を通過した。

 

運河は北端のポートサイドと南端のスエズ市タウフィーク港を結び、中間点より北に3キロメートルの運河西岸にはイスマイリアがある。

 

 

建設当初のスエズ運河は全長164キロメートル (102 mi)、深さ8メートル (26 ft)だったが、その後何度かの拡張工事を受け、現在では全長193.30キロメートル (120.11 mi)、深さ24メートル (79 ft)、幅205メートル (673 ft)となった。

 

スエズ運河は南北どちらかの一方通行で運営され、船のすれ違いはバッラ・バイパス(Ballah By-Pass)やグレートビター湖など4か所で可能である。

 

運河には閘門が無いため海水は自由に流れ、主に夏にはグレートビター湖から北へ、冬は南へ水流が生じる。潮目の変化は湖の南で起こる。

 

 

 

運河はエジプト政府の所有物であったが、1956年7月にナーセル大統領が運河を国有化するまでは、フランスやイギリスを中心としたヨーロッパの株主が運河を運営するコンセッション会社を所有しており、このことが1956年10月から11月にかけてのスエズ危機の原因となった。

 

スエズ運河は、エジプトの国営スエズ運河庁(SCA)によって運営・維持されている。

 

スエズ運河の自由航行に関する条約では、「戦時においても平時においても、通商または戦時のすべての船舶が旗の区別なく使用することができる」とされている。

 

とはいえ、運河は海軍のショートカットやチョークポイントとして、軍事戦略上重要な役割を果たしてきた。

 

地中海と紅海の両方に海岸線と基地を持つ海軍(エジプトとイスラエル)は、特にスエズ運河に関心を持っている。

 

2014年8月、エジプト政府は、スエズ運河の通過時間を短縮するために、バラ・バイパスを35km拡張・拡幅する工事に着手した。

 

 

この拡張工事は、スエズ運河の容量を1日あたり49隻から97隻へと約2倍にすることを目的としている。

 

費用は594億エジプトポンド(90億ドル)で、エジプトの企業や個人に限定して発行された有利子の投資証明書で賄われた。

 

新スエズ運河と名付けられたこの拡張工事は、2015年8月6日の式典で華々しく開通した。

 

 

2016年2月24日、スエズ運河庁は新しい側水路を正式に開通させた。この側水路は、スエズ運河の東延長部の北側に位置し、イースト・ターミナルに船舶を接岸・離岸させるためのものである。

 

イースト・コンテナ・ターミナルはスエズ運河上に位置しているため、新航路が開通するまでは、護衛艦の走行中にターミナルへの接岸・離岸を行うことはできなかった。

 

 

中立外交政策を取る共和国制エジプトがソ連と交渉を持ったことを理由に英米がアスワンダム建設支援の公約を取り下げたことが発端となり、エジプトのガマール・アブドゥン=ナーセル大統領は1956年7月26日にスエズ運河を国有化してスエズ運河庁へ管理を移管させる宣言を行った。

 

これに対抗してイギリス、フランス、イスラエルが密約を交わして軍事行動を起こし、スエズ危機と呼ばれる第二次中東戦争が勃発した。

 

イスラエルが陸上から侵攻し、イギリスとフランスが空軍および支援活動を行った。

 

しかしこの作戦にアメリカは参加せず、イギリスはアラブ諸国や反植民地主義世論から厳しい批判を受けるようになった。

 

戦線が拡大して惨憺たる状態となったイギリスを救うため、カナダの外相レスター・B・ピアソンが、スエズ運河通行の安全確保とイスラエルのシナイ半島撤退実行を目的とした初めての国連平和維持軍創設を提唱した。

 

1956年11月4日、国連加盟国の大部分が、国連平和維持軍がシナイ半島に駐留してエジプトとイスラエルが双方軍を撤退させるまで委任統治を行うというピアソン案を支持し、採択された。

 

アメリカもこれを支持し、イギリスポンドを売却して価値を下げる圧力をイギリスに掛け、同国の軍撤収を認めさせた。

 

ピアソンには、後にこの功績が讃えられノーベル平和賞が贈られた。

 

スエズ運河はエジプト軍が故意に船を沈没させて強制的に閉鎖されていたが、1957年4月に国連の支援で撤去され、再開通した。

 

運河とシナイ半島の中立を維持するため、第一次国際連合緊急軍(United Nations Emergency Force, UNEF)が設立された。

 

 

1967年5月、ナーセル大統領は国連平和維持軍に対してスエズ運河を含むシナイ半島からの撤収を求めた。イスラエルは反対したが、国連はこれを認めて軍を引き揚げ、エジプトはイスラエル国境まで軍を駐留させ、チラン海峡のイスラエル籍船の航行を封鎖した。

 

なお、スエズ運河のイスラエル船利用は、1951年 - 1952年の短い期間を除き、1949年以来認められていなかった。

 

この事態が1967年6月にイスラエルをしてエジプトへの先制攻撃に駆り立て、シナイ半島とスエズ運河制圧に乗り出させた。

 

こうして起こった第三次中東戦争の期間、封鎖された。

 

 

さらに第三次中東戦争の結果、イスラエルはスエズ運河まで進撃し、運河はエジプトとイスラエルが対峙する前線となった。

 

このため、通航不能状態が続き、運河には黄色い船団と呼ばれることになる14隻の貨物船が8年間にわたって閉じ込められた。

 

1973年10月の第四次中東戦争中、運河はイスラエルが占拠したシナイ半島に向かうエジプト軍と、エジプト本土に攻め込むイスラエル国防軍とが相互に渡河作戦を実施している。

 

運河周辺には、戦車などこの戦争の残骸が記念碑として残されている。

 

 

第四次中東戦争後、イスラエルとエジプトは和平の方向に向かい、運河再開に向けて動いている。

 

シナイ半島には第二次国際連合緊急軍が展開し、両国の兵力引き離しを行なった。

 

1974年5月から12月には、第四次中東戦争でスエズ運河に撒かれた機雷を排除するため、アメリカの強襲揚陸艦イオー・ジマが12機のRH-53Dを積載して現地に向かい、掃海作業および不発弾撤去のNimbus Moon作戦を実行した。

 

これによって、湖沼部を含む運河にあった機雷の99%が掃討され、1975年に運河通行は再開された。

 

 

第二次国際連合緊急軍は1979年に展開期限を迎えた。

 

アメリカ、エジプト、イスラエルを始めとする諸国が1979年のエジプト・イスラエル平和条約に基づき、平和維持に関して国連の役割を強めようとしたが、シリアの反対を受けたソ連が国際連合安全保障理事会にて賛同せず、これは実現しなかった。

 

そこで、1981年に多国籍軍監視団(MFO)が創設され、イスラエルの段階的撤退を後押しした。

 

これは、アメリカ、イスラエル、エジプトの合意下で実施された。

 

 

 

スエズ運河の通行料って幾らくらいなのだろうか?

 

平均で3000万円強は取られるらしい。

 

通航料は船の「重さ」「種類」「リスク」に応じて計算される。

 

たとえば、液化天然ガスを運ぶ場合はリスクが高いので、5000万ほどに高騰する。

 

中東とアラビア海とヨーロッパを結ぶ航路で、スエズ運河以外をたどるとなれば、南アフリカの喜望峰を進む以外にありません。

 

でも、アラビア海とロンドンを往復する場合、喜望峰を通ると2万1000kmですが、スエズ運河を通ると1万2000kmで済むことを考えると・・・・。

 

喜望峰だと、タンカーで行くと10日くらい余計に時間がかかってしまう。

 

タンカーは、燃料代や人件費を考えると、1日1000万円くらいコストがかかります。

 

そうすると10日で1億円ですよね。となるとスエズ運河に5000万円の通航料を払ったほうが、お金も時間も “お得” になる。