もうひとつの観艦式 ~The 2019 Virtual Fleet Review~ | 戦車のブログ

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観艦式とは、軍事パレードのひとつで、軍艦を並べて壮行する式のことである。

 

国家の祝典の際や、海軍の記念行事の一環として行なわれるのが一般的である。

 

現代では水上艦や潜水艦だけでなく海軍航空隊の航空機も参加することが多い。

 

もちろん海上自衛隊も観艦式を行っている。

 

2019年に行われた観艦式の舞台裏の動画。

 

 

 

 

観艦式は、かつては、味方の艦隊を観閲することにより、軍の士気を高め、国民や友好勢力には、精強さをアピールすると共に、敵勢力に対する示威行為とすることであった。

 

しかし現在では、他国からの艦艇を招き、国際親善や防衛交流を促進することや、自国民の海軍に対する理解を深めることが主要な目的である。

 

 

主に、受閲艦艇が停泊し、その間を観閲艦艇が航行する方法が世界的には多い方式である。

 

この他に、受閲艦艇と観閲艦艇の双方が航行しながら観閲する方法や陸上から観閲する方法がある。

 

海上自衛隊の場合には、双方が航行しながら観閲する方法を採用しているが、さらに展示訓練を加えている。

 

 

観艦式の起源は、1341年、英仏の百年戦争の最中に、イングランドの王、エドワード3世が出撃の際、自軍艦隊の威容を観閲したことに始まる。

 

また、現在各国で行なわれている観艦式の様式は、1897年(明治30年)、イギリスのビクトリア女王即位60年祝賀の際に挙行されたものが基となっている。

 

 

日本における観艦式の起源は、明治元年3月26日(1868年)に大阪の天保山の沖において行われたものである。

 

この時は、明治天皇が陸上から観閲し、受閲艦艇は日本の6隻及びフランス海軍の1隻で、受閲艦艇の総指揮官は旗艦電流丸(佐賀藩)に座乗した石井忠亮海軍中佐であった。

 

ただし、これ以前の江戸時代初期には、徳川家光等の将軍天覧による幕府水軍の「船行列」と称する、観艦式に類似した行事が行われている。

 

 

 

その後、1878年(明治11年)に当時の海軍卿川村純義が、海軍の本体である艦隊そのものを天覧に供することで海軍の進歩を図るべきと、太政大臣三条実美に上申し、その結果、1890年(明治23年)に神戸沖で実施された「海軍観兵式」が近代海軍としての観艦式の始まりである。

 

その次の1900年(明治33年)の式からは名称も「観艦式」となった。

 

1900年から1908年(明治41年)まで御召艦(おめしかん)に選ばれた装甲巡洋艦「浅間」は、日本海軍の観艦式で最も多数回、御召艦に選ばれた軍艦である。

 

戦前には、観艦式は明治元年に天保山沖で行なわれたものから数えて全部で18回行なわれた。

 

特に、1905年(明治38年)の東京湾凱旋観艦式(日露戦争凱旋観艦式)と、1928年(昭和3年)の昭和天皇の即位の大礼に伴う観艦式は、連合艦隊に加え、外国の軍艦も参加する盛大なものであった。

 

 

大東亜戦争後は海軍解体に伴い途絶えていたが、1957年(昭和32年)10月2日、海上自衛隊により東京湾において再開された。

 

その後、1973年(昭和48年)まではほぼ毎年実施されていたが、オイルショックのためこの年を最後に中止された。

 

1981年(昭和56年)に復活し、それ以後はほぼ3年おきに行なわれている。

 

水上艦艇部隊、潜水艦部隊、航空部隊が参加する。当初は停泊方式であったが、1961年(昭和36年)の第3回から観閲部隊、受閲部隊ともに航走しながら実施する移動方式となった。

 

非常に難易度が高く、世界的にも珍しい方式である。

 

1996年(平成8年)以降は、自衛隊記念日の行事の一環として陸上自衛隊の「中央観閲式」、航空自衛隊の「航空観閲式」と持ち回りで行われる。

 

観艦式の付帯行事として、平日に二度の予行が実施されるほか、青少年体験航海、艦艇の一般公開や音楽隊の演奏なども行われる。

 

また、第3回から一般市民も公募で乗艦できるようになった。

 

内閣総理大臣を観閲官とし、執行者は自衛艦隊司令官又は防衛大臣の命ずる海将である自衛官が務める。