ガダルカナル島米軍上陸 | 戦車のブログ

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ガダルカナル島の戦闘は、ミッドウェー海戦と共に大東亜戦争における攻守の転換点となった。

 

日本側は激しい消耗戦により兵員に多数の餓死者を発生させたうえ、軍艦、航空機、燃料、武器等多くを失った。

 

北海道の道北出身者で編成された歩兵二十八聯隊を基幹とした一木支隊が全滅した。

 

私の出身の街からも多くの戦没者を出した。

 

一木支隊が全滅した夜、旭川の二十八聯隊に英霊が帰還したのは有名な話である。

 

 


1942年8月7日、大東亜戦争のソロモン諸島の戦いで、アメリカ軍がガダルカナル島に上陸し、ガダルカナルの戦いが始まった日。

 

 

 

 


8月7日午前4時、海兵隊第1海兵師団(師団長アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将)を主力とし、オーストラリア軍の支援を受けた10,900名の海兵隊員が、艦砲射撃と航空機の支援の下でガダルカナル島テナル川東岸付近に上陸を開始した。

 


同時にツラギ島方面にも4個大隊1,500名が上陸し壮絶な玉砕戦が行われた。

 

 

アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将

 

 

また、これとは別に6,705名が海上に師団予備として残された。

 

 

ガダルカナル島の日本軍は哨直の第13設営隊以外は眠っており、連合軍の攻撃は完全な奇襲となった。

 

 


上陸当初、最も敵に近いルンガ川の飛行場地区に第11設営隊の陣地があり、ルンガ川を挟んで第13設営隊、海軍陸戦隊が駐屯していたが、各隊の陣地は防空壕以外に陣地整備されているものは何も無い状況だった。

 

 

 


そのため、敵兵力の把握もままならないままルンガ川東岸の第11設営隊約1,350名は駆逐され、完成間近の飛行場を含むルンガ川東岸一帯は連合軍の手に落ちた。

 

 

 


この上陸戦において、米軍側公刊戦史は小銃、機関銃数挺、70粍山砲(歩兵砲)及び75粍山砲各2門、弾薬、ガソリン、燃料、使用可能なトラック35台を含む自動車と電波探知機2台、糧秣多数を鹵獲したと伝えている。

 

 

岡村徳長少佐

 

 


一方、第13設営隊隊長岡村徳長少佐は指揮下の1,200人の設営隊員を敵上陸地点の反対方向のルンガ川西岸地区に移動させ、ルンガ川橋梁を破壊してルンガ川西岸で連合軍部隊を迎え撃つ姿勢を見せた。

 

 

 

同日夕方、どうにか数十名の部下を従えた第11設営隊隊長門前鼎大佐が岡村部隊と合流して善後策を協議し、ルンガより西方約4キロメートルにあるマタニカウ川を第一線陣地とし、門前隊、岡村隊、第18警備隊(含む第84警備隊の1部)を合わせて臨時のガダルカナル島守備隊を編成することとなった。

 

 

 

8日午前零時、門前大佐が中隊長としてクルツ岬に向けて中隊本部を後退させ、岡村隊と警備隊をマタニカウ川正面に展開を終えたのは8日午前4時30分とされる。

 

 

この際に同隊がクルツ岬付近のジャングルに設営された海軍本部に収容できた食料は、わずか7日分であった。

 

 

 

上陸当初のアメリカ軍は日本軍の空と海からの攻撃のため十分な物資を揚陸できず、日本の飛行場設営隊が遺棄した施設・物資も活用された。

 

 

 

倉庫に山積みされた大量の米は初期の毎日2食の米兵の貴重な食料となった。