いわゆる戦争遺跡だが、「保存」されていた訳でもなく意外と現在も使われていたりして残っていたりするものもある。
それが「理研」にあったとはね・・・。
以下産経ニュースより転載
明治初期から陸軍の火薬工場や火薬研究所が置かれ、今も数々の遺構が残る東京都板橋区の「陸軍板橋火薬製造所跡」がこのほど、国の史跡に指定された。
同区はこの一帯を近代化・産業遺産を保存・活用した史跡公園にする計画で、2024年度の開園を予定している。
火薬製造所は1876(明治9)年、石神井川に沿った旧加賀藩下屋敷跡に発足。
日本で初めて西洋科学を取り入れた火薬製作を行い、終戦時は東京第二陸軍造兵廠板橋製造所(二造)と呼ばれていた。
試験射撃に使われた弾道管と標的が現存し、実験室などの建物も多数残る。
戦後、二造跡地には「理化学研究所(理研)」の板橋分室(後に分所と改称)が開設され、ノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹、朝永振一郎両博士がここで研究を行ったほか、化学工業の振興を目的に実業家野口遵が設立した「野口研究所」も横浜などの旧所在地から移ってきた。
(産経ニュース)
板橋区は、日本最古の射撃場や弾道管が現存し、産業遺産として歴史的価値がある旧陸軍の火薬製造所跡地(同区加賀)とその周辺を活用した史跡公園を作る。
3ゾーンに分け、江戸時代から現在に至る同区の歴史を学べる公園として整備し、東京五輪・パラリンピックが開催される平成32年に部分開放、35年に完成させる。
軍事施設の産業遺産を活用した史跡公園は都内初で、区は国の重要文化財指定を目指している。
整備計画によると、史跡公園は総面積約1万3千平方メートル。
江戸時代、明治~先の大戦、戦後-のそれぞれの歴史を学べる3ゾーンで構成する。
江戸時代は旧加賀藩下屋敷の一部を利用して作られた「加賀公園」(約5千平方メートル)。
明治~先の大戦は、火薬製造所跡地に建つバイオテクノロジー研究を行う野口研究所の敷地の一部(約3900平方メートル)。
戦後については、旧理化学研究所板橋分所(約3800平方メートル)の取得に向けて交渉している。
ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹氏や朝永振一郎氏の研究室があった場所で、博物館施設を設置して両氏が使っていた研究室を再現する予定だ。
火薬製造所の射撃場跡は明治10年の建造で、弾丸のスピードを計測する弾道管、爆薬製造実験室は昭和初期の建築。
いずれも「現存するものでは国内最古」という。
区は今年1月、射撃場や弾道管がある野口研究所の東側部分の取得で合意。
火薬製造所は、所内を流れる石神井川を水車の動力として利用できることから、明治初期に日本最初の洋式火薬製造所「板橋火薬製造所」ができ、先の大戦中は東京第二陸軍造兵廠板橋工場となった。
川をはさんだ対岸に旧理化学研究所板橋分所がある。