レイテ沖海戦は戦時中はフィリピン沖海戦と呼ばれていた。
大東亜戦争中の1944年10月23日から同25日にかけてフィリピン及びフィリピン周辺海域で発生した、日本海軍とアメリカ海軍・オーストラリア海軍からなる連合国軍との間で交わされた一連の海戦の総称として現在はレイテ沖海戦と呼ばれている。
以下産経ニュースより転載
「“この戦い”で我々はおそらく生きては帰れないだろう…」。
この戦いとは昭和19年10月、フィリピンのレイテ島周辺海域で展開されたレイテ沖海戦のことだ。
この史上最大規模の海戦の渦中に“囮(おとり)部隊”として参戦した重巡洋艦「最上」に、元海軍零式水上偵察機(零式水偵)搭乗員、加藤昇さん(95)は乗艦していた。
戦いの直前、加藤さんは上官から冒頭の言葉を告げられた。
囮作戦であるため、5機の艦載機・零式水偵は陸地へ飛び立っていた。
搭乗員の多くも零式水偵とともに艦を離れていったが、士官だった加藤さんは最上と運命をともにする覚悟を決めた。
“翼を奪われた水上機乗り”の証言は壮絶だった。(戸津井康之)
囮としての戦い
「レイテ沖海戦において、最上は敵艦隊をおびき寄せる囮役だったんです。上官から、『おそらく我々は生きては帰れない』と聞かされ、私は覚悟を固めました…」
零式水偵の若き機長、加藤さんは淡々と当時を振り返り、こう続けた。
「3機の艦載機から外せる部品をすべて降ろし、部下の搭乗員を乗れるだけ乗せて見送りました」
零式水偵は3人乗り。
だが、機体の隙間に体を押し込むようにして何人も搭乗させたという。
定員オーバーの重い機体が次々と最上を飛び去っていった。
「いよいよ出撃です。私たちの乗る『最上』は、戦艦『山城』『扶桑』の後について、一直線にレイテへ突入していきました」
“囮”を発見した米艦隊は激しい攻撃を開始する。
最上に残り、飛行甲板で見張り番をしていた加藤さんは、米艦隊から一斉に発射され、迫る無数の魚雷の影が日本の艦隊に向かって一直線に突き進んでくる光景を今でもはっきりと覚えているという。
吹き飛ぶ最上の艦橋
「扶桑はさすがに戦艦です。魚雷数本の直撃を受けたのですが、しばらく持ちこたえていました。しかし、やがて弾火薬庫に誘爆し、目の前で沈没していきました。その直後には山城も撃沈していきました」
そして加藤さんが見張りをしていた最上の甲板にも敵弾が撃ち込まれる。
「衝撃で甲板がめくれ上がり、私は伝令として艦橋へ駆け上がりました」
だが、その直後、最上の艦橋を敵弾が直撃した。
この被弾により、艦長や副長たち防空指揮所で指揮を執っていた最上の大半の幹部が瞬時に戦死したという。
「急いで艦橋に上がってみると、幹部たちはみんな血だらけになって戦死していたのです。生き残った砲術長が指揮を執ることになり、『このままレイテへ突っ込もう!』と言いましたが、私は『8ノットしか出なくて、兵器もないのにどうやって突っ込むんですか!』と食い下がりました」
艦長ら幹部を失った最上艦内では生き残った士官たちで緊急の話し合いが行われていたのだ。その中には少尉の加藤さんもいた。
撃沈する最上
損傷を受けた最上は、ようやく人力操舵に切り替えて態勢を立て直し、退避を始めたが、そこへ後から駆けつけてきた重巡洋艦「那智」が突っ込んできた。
混戦の中で味方の指揮も混乱していたのだ。
「最上から急いで信号を発信したが、間に合わず那智は左舷へ衝突。私たちは踏ん張ってこの衝撃に耐えました」
真っ暗闇の中で吹き上がる炎に煙、耳を切り裂く轟音(ごうおん)…。
加藤さんの目の前で地獄絵図のような戦闘が繰り広げられた。
激しい戦闘の末、夜が明け、煙も消え去り視界が広がってきたが、その光景に加藤さんは慄然とした。
(産経ニュース)
当時の日本側の呼称はフィリピン沖海戦もしくは漢字表記の比島沖海戦、菲島沖海戦である。
「レイテ沖海戦」の名称は公式には使用していない。
連合軍の作戦名はキングII作戦(Operation KING II)でレイテ島奪還が目的、日本側の作戦名は捷一号作戦でアメリカ軍の進攻阻止が目的であった。
日本海軍の艦隊戦力はこの海戦での敗北を最後に事実上壊滅し、以後大規模かつ組織的活動が不可能となった。
また、この海戦で日本側ははじめて神風特別攻撃隊による攻撃をおこなった。
日本海軍は稼働艦艇の多くの投入を企図するなど総力を挙げ、後の戦闘を見越し陸軍も多数の部隊を配置し、アメリカも太平洋に展開する大半の軍事力(特に海軍)を投じたうえに、同盟国のオーストラリア海軍の支援を得て戦った。
その規模の大きさ、戦域が広範囲に及んだことなどから史上最大の海戦とも言われる。