小林 照彦二等空佐 | 戦車のブログ

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撃墜王列伝は、戦隊長として本土防空戦を戦い抜いた小林照彦陸軍少佐。

 

戦後航空自衛隊へ入隊しT-33練習機を操縦中市街地に機を墜落させないよう最後まで操縦しての殉職した二等空佐。

 

 

小林 照彦(1920年(大正9年)11月17日 - 1957年(昭和32年)6月4日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官。

 

最終階級は帝国陸軍では陸軍少佐、空自では2等空佐。

 

 

1920年(大正9年)11月17日、東京府に生まれる。

 

国士舘中学校を経て、1940年(昭和15年) 陸軍士官学校53期を卒業したのち砲兵科から航空兵科へ転科し、空中勤務者(分科は「軽爆撃機」)となる。

 

 

飛行第45戦隊、飛行第66戦隊を経て、1943年(昭和18年)11月に飛行分科を「戦闘機」に転じ、明野陸軍飛行学校亀山分校で戦闘機学生教育を受ける。

 

戦闘機学生教育終了後、明野陸軍飛行学校、佐野陸軍飛行場、林陸軍飛行場で教官任務に就く。

 

 

1944年(昭和19年)11月末、帝国陸軍史上最年少(満24歳、階級は陸軍大尉)の飛行戦隊長として東京都下調布の飛行第244戦隊に着任。

 

 

当初は三式戦闘機「飛燕」、1945年(昭和20年)5月以降は五式戦闘機に搭乗して、終戦まで日本本土の防空任務にあたった。

 

 

 

帝国陸軍航空部隊の飛行戦隊は、地上部隊の連隊に相当するが、その長である戦隊長は、階級や年齢に関わらずに、自ら第一線機に搭乗して陣頭指揮を執った。

 

なお、飛行戦隊の上級部隊であり、他兵科の旅団に相当する飛行団の長である飛行団長も、自ら第一線機に搭乗して麾下の飛行戦隊を空中指揮した例が珍しくない。

 

 

1944年(昭和19年)8月20日、北九州に来襲したB-29 編隊を迎撃し、B-29 1機を撃墜した第16飛行団長の新藤常右衛門中佐(当時41歳)の例がある。

 

 

 

飛行第244戦隊長となった小林も、戦隊長標識を施した三式戦「飛燕」や五式戦を駆って本土防空戦の陣頭に立ったが、1945年(昭和20年)4月12日に乗機を撃墜されて山梨県大月市付近に落下傘降下した際には、救助してくれた村人に、小林が「自分は調布の戦隊長です」と言っても、村人は「そんな若い部隊長さんなんて嘘でしょ」と全く信じてくれなかったという。

 

 

1945年(昭和20年)1月27日、B-29 1機を体当たりで撃墜し、落下傘降下して生還。

 

小林は軽傷(擦過傷、打撲傷)を負ったのみであった。

 

 

 

4月12日にB-29の編隊に単機突入し、護衛のグラマンF6Fの射撃で被弾し、操縦不能となるも、落下傘降下して再び生還。こ

 

の際、右脚に機関砲弾破片の盲管創を受ける(小林の日記の記載による)。

 

 

 

5月15日に、第1総軍司令官杉山元元帥陸軍大将から、飛行第244戦隊に部隊感状が授与された。

 

それに先立ち、小林は第1総軍に呼ばれて「こんど感状を授与したいと思うが、君への個人感状にしようか、それとも部隊感状にしようか」と聞かれた。

 

 

小林は「当然部隊感状にして頂きたい」と即答した。

 

小林はこの時に少佐に進級し、表彰状と武功章が授与された。

 

 

帝国陸軍での最終階級は陸軍少佐。

 

敵機撃墜数は6機(うち、1機は体当たり撃墜したB-29)。

 

 

 

敗戦後、1945年11月1日に復員して東京の自宅に戻る。いくつかの職を転々とするも、1946年(昭和21年)8月に、陸軍で懇意だったある元陸軍技術中佐が経営陣に加わっている佐賀板紙株式会社に入社して生活の安定を得る。

 

 

勤務と並行して、1946年(昭和21年)4月に明治大学法学部(二部)に入学し、1950年(昭和25年)に卒業。

 

 

サラリーマンとしての勤務を続けながら、「日本空軍設立」の運動に取り組む。

 

 

 

小林は佐賀板紙株式会社で実績を挙げ、将来を嘱望されていたが、1954年(昭和29年)7月に航空自衛隊が創設されると同社を退職して9月4日付でこれに入隊、帝国陸軍時代の経歴から3等空佐(陸軍少佐相当)となった。

 

 

航空自衛隊幹部学校へ入校し、ふたたび戦闘機操縦者の道を歩んだ。

 

松島基地、築城基地を経て1955年(昭和30年)11月から約半年間、アメリカ合衆国に留学しF-86戦闘機の操縦教育を受ける。

 

 

帰国後、浜松基地で第1飛行団第1飛行隊長として教官勤務につくが1957年(昭和32年)6月4日、搭乗のT-33練習機が離陸直後に墜落。

 

 

同乗者の天野裕3等空佐を先に脱出させた(脱出時の高度が低すぎたため天野3佐も殉職し2等空佐に特進)後、市街地に機を墜落させないよう最後まで操縦しての殉職だった。

 

生涯飛行時間は約2,000時間であった。

 

殉職により2等空佐に特進。