畑中 健二  陸軍少佐 | 戦車のブログ

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畑中 健二(はたなか けんじ、1912年3月28日 - 1945年8月15日)は、日本の陸軍軍人。



最終階級は陸軍少佐。





京都府京丹後市出身。地主・畑中鋭次郎の二男として生れる。


京都府立園部中学校を四年修了、三高文科を希望していたが周囲の勧めで陸軍士官学校予科を経て、1934年(昭和9年)6月、陸軍士官学校(46期)を卒業。


1934年(昭和9年)10月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第1連隊付となる。


陸軍砲工学校で学び、1940年(昭和15年)6月、陸軍大学校(53期)を卒業した。


井田正孝


1935年(昭和10年)頃より、井田正孝、竹下正彦とともに東大教授・平泉澄の直門として親交を深める。



陸士教官を経て、太平洋戦争に第3軍参謀として出征。



1942年(昭和17年)3月から7月までフィリピンに出張し、4月に戦傷を受けた。


同年8月、陸軍少佐に進級。



陸軍省兵務局課員(兵備課)、軍務局課員(軍務課)を歴任。


森赳近衛師団長


終戦時に宮城事件の首謀者の一人となり、森赳近衛師団長を殺害。


映画「日本のいちばん長い日」より



クーデターは未遂となり、1945年(昭和20年)8月15日、午前11時過ぎに二重橋と坂下門の間の芝生上で椎崎中佐と共に自決した。



遺書には「松陰先生の後を追うべく自決して、武蔵の野辺に朽ち果てる。敵のために自己の魂も、国も、道も、一時中断させられるであろうが、然し、百年の後には必ず道と共に再び生きる。護国の鬼となり、国と共に必ず七生する。」と記し、辞世の句として「今はただ思ひ殘すことなかりけり 暗雲去りし御世となりなば」という歌を添えた。