牟田口 廉也 陸軍中将 | 戦車のブログ

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牟田口 廉也(むたぐち れんや、1888年(明治21年)10月7日 - 1966年(昭和41年)8月2日)は、日本の陸軍軍人。



最終階級は中将。




盧溝橋事件や、大東亜戦争開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。




佐賀県出身、陸軍士官学校(22期)卒、陸軍大学校(29期)卒。



難関の陸軍大学校を中尉になってすぐに合格しており、荒川憲一は「下級将校時代はいわゆる優等生であったことは間違いない」と評しているが、陸大を卒業してからは18年間は専ら参謀本部・陸軍省勤務であった為、典型的軍人官僚とも述べている。





大田嘉弘によれば、若いころに陸軍省勤務であった経験が人事を軽く見る後の行動につながったという。



少佐時代にカムチャツカ半島に潜入し、縦断調査に成功している。





1937年(昭和12年)7月7日夜半に発生した盧溝橋事件では、現地にいた支那駐屯歩兵第1連隊の連隊長であった。



牟田口は、同連隊第3大隊長だった一木清直から、同大隊第8中隊が中国軍の銃撃を受けたとして反撃許可を求められ、「支那軍カ二回迄モ射撃スルハ純然タル敵対行為ナリ 断乎戦闘ヲ開始シテ可ナリ」(支那駐屯歩兵第一連隊戦闘詳報)として戦闘を許可した。



このことから、牟田口は、自身が日中戦争(支那事変)の端緒を作り出したと考えるようになった。



もっとも、盧溝橋事件を中国共産党の謀略により中国第29軍が起こしたとする見解を前提にすれば、牟田口の自意識過剰とも評される。






太平洋戦争



1941年(昭和16年)12月に大東亜戦争が勃発すると、牟田口は第18師団長として開戦直後のマレー作戦、シンガポール攻略戦の指揮を執った。



指揮下の佗美支隊が先行してコタバルに強襲上陸を行い、橋頭堡を確保、1942年(昭和17年)1月3日、要衝クアンタンを占領した。



牟田口廉也ら師団主力はマレー半島東海岸への敵前上陸作戦も計画されたものの、1月22日、すでに第25軍がクルアンに進出した頃、前線からおよそ1,000km後方のシンゴラに上陸、1月29日にクルアンに到着した。



シンガポールの戦いにおいて牟田口は、テンガーの飛行場を占領する際、肉薄したオーストラリア兵の手榴弾により左肩を負傷したが、血まみれになりながらも作戦を指揮した。





ついで第18師団長として部下を率い、ビルマ戦線にも加わった。



1942年(昭和17年)9月、南方軍がインド東部のアッサム地方に侵攻する二十一号作戦を立案した際には、上司である飯田祥二郎第15軍司令官とともに兵站面の準備不足で実現の見込みが無いとして反対し、同作戦を無期延期とさせた。



もっとも、牟田口は、二十一号作戦に反対したことについて、大本営や南方軍の希望を妨げ第15軍の戦意を疑わせてしまったとして後に反省している。



牟田口は1943年(昭和18年)3月に第15軍司令官に就任し、1944年(昭和19年)3月から開始されたインパール作戦では、ジャングルと2,000m級の山々が連なる山岳地帯での作戦を立案した。



この作戦に対しては当初、上部軍である南方軍司令官や第15軍の参謀、隷下師団のほぼ全員が、補給が不可能という理由から反対した。


しかしながら戦局の打開を期待する軍上層部の意向に後押しされる形で、最終的にはこの作戦の実施は決定されることとなった。




佐藤幸徳中将


この作戦中、牟田口が要望した自動車等の補給力増強がままならないため、牟田口は現地で牛を調達し、荷物を運ばせた後に食糧としても利用するという「ジンギスカン作戦」を発案した。



しかしもともとビルマの牛は低湿地を好み、長時間の歩行にも慣れておらず、牛が食べる草の用意もおぼつかず、また日本の牛とも扱い方が異なったため、牛はつぎつぎと放棄され、「ジンギスカン作戦」は失敗した。



また、当初の危惧通りインパール作戦が頓挫した後も強行・継続し、反対する前線の師団長を途中で次々に更迭した。



このとき、戦況の悪化、補給の途絶にともなって第31師団長佐藤幸徳中将が命令を無視して無断撤退するという事件を引き起こした。




このインパール作戦失敗の後、8月に第15軍司令官を罷免されて参謀本部附となり、12月に予備役編入される。



翌1945年(昭和20年)1月に召集され、応召の予備役中将として陸軍予科士官学校長に補され、同年8月に敗戦を迎えた。




晩年



牟田口は戦後、東京都調布市で余生を過ごした。



しばらくの間はインパール作戦に対する反省の弁を述べ、1960年(昭和35年)頃まで、敗戦の責任を強く感じて公式の席を遠慮し続けながら生活していた。



しかし、1962年(昭和37年)にバーカー元イギリス軍中佐からインパール作戦成功の可能性に言及した書簡を受け取ったことを契機に、自己弁護活動を行うようになり、死去までの約4年間はインパール作戦失敗の責任を問われると戦時中と同様、「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と頑なに自説を主張していた。



同様の主張は、多くの機会で繰り返された。




国立国会図書館はオーラル・ヒストリーの一環として盧溝橋事件についての証言の録音を牟田口に求め、1963年(昭和38年)4月23日にその録音が実施された。



このとき、牟田口は、最初予定のなかったインパール作戦の回想の録音も頼み、1965年(昭和40年)2月18日に実施された。



1966年(昭和41年)8月2日、気管支喘息・胆六嚢症・心筋梗塞治療中に脳溢血を併発して死去。



兵士たちへの謝罪の言葉は死ぬまで無かった。



8月4日に行われた自らの葬儀においても、遺言により、自説を記したパンフレットを参列者に対して配布させた。



遺骨は多磨霊園に埋葬されたが、墓石は戒名のみが記された質素なものとなっている。





以下の証言の内、生前のエピソードは、牟田口やビルマ戦線関連の書籍などにおいて、匿名を含む関係者の証言として伝えられているものである。



中でも高木俊朗の手になる小説『抗命』『全滅』は多くの証言を集めており、高木自身も牟田口に対して極めて批判的である。



第18師団長時代、師団の池田後方主任参謀は牟田口について「中将は後方が無理解で、無理難題を幾度も押し付けられて泣かされたことがある」と述懐したことがある。


第18師団長時代の牟田口は、上層部の立案した二十一号作戦に無謀だと反対したが、後に大本営や南方軍に逆らったことを反省している。



このことについて、戦史研究家の土門周平は、上司に命じられたことにはただ従えば良いとする発想は、師団長にはふさわしくない下級将校の論理だと非難している。



戦後に第18師団の元将兵との面接や部隊史の調査をした大田嘉弘によれば、第18師団長時代の部下の間ではインパール作戦時の前線将兵の証言と異なって、温情ある将軍で郷土の英雄として誇る見方が大多数であるという。





作戦開始後1ヵ月半程が経過した4月22日、牟田口は第33師団司令部を視察した。


当時第33師団は米国留学組の柳田元三師団長により、村を一つ占領する度に前進をストップし、部隊の掌握と補給線の維持に重きを置く「統制前進」により進撃を行っていたため、計画より前進が遅延していた。牟田口は「『弓』は何をしておるのか、何をまごまごしておるのか・・・・・・これでは、師団長が兵力の温存を図っているとしか考えられない」と激怒し、司令部の天幕内で柳田を大声で罵倒し、その様子は「あたかも伍長が二等兵をどやしつける調子だった」と言う。


師団長としての面目を潰された柳田は屈辱に打ち震えたと言う。



インパール作戦が敗色濃厚となり部下の藤原岩市参謀に「陛下へのお詫びに自決したい」と相談した(もとより慰留を期待しての事とされる)。



これに対し藤原参謀は「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません。 司令官から私は切腹するからと相談を持ちかけられたら、幕僚としての責任上、 一応形式的にも止めないわけには参りません、司令官としての責任を、真実感じておられるなら、黙って腹を切って下さい。誰も邪魔したり止めたり致しません。心置きなく腹を切って下さい。今回の作戦(失敗)はそれだけの価値があります」と苦言を呈され、あてが外れた牟田口は悄然としたが自決することなく、余生をまっとうした。



インパール作戦失敗後の7月10日、司令官であった牟田口は、自らが建立させた遥拝所に幹部将校たちを集め、泣きながら次のように訓示した。


「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」。



訓示は1時間以上も続いたため、栄養失調で立っていることが出来ない幹部将校たちは次々と倒れた。





第15師団後方主任参謀野中国男少佐は、1944年7月の佐藤師団長の更迭に際し、15軍の司令部に連絡の為訪れた。



出迎えた牟田口の表情は当初温和そのものであったが、佐藤がラングーンに向け移動する途中で司令部に立寄った際にはわざと前線視察に出て会見を避けた。



その翌日、牟田口は「烈の幕僚は、ひとりとして、腹を切ってでも佐藤師団長を諌める者は居ないのか」と腹切りに固執した。



野中は、前日の物分りのよい司令官とは全く別の人間が現れたように感じたと言う。


久野村桃代参謀長


野中によれば、15軍司令部を見ていてすぐに分かったのは牟田口と幕僚の間が全く疎隔しており、意思疎通が無かったことであった。


只一人牟田口に接近していたのが久野村桃代参謀長であった。



参謀が意見具申をしていることがあっても、牟田口は頑なに意見を聞かなかった。



一方、牟田口が示す命令は実行不能なものばかりで、参謀達は起案を拒否したため、牟田口が自身で起案していた。



野中によれば、牟田口はこの頃「一度、教育総監をやってみたい」と口にし、周囲の笑いものになった。



クンタンの司令部にも日に日に英軍の砲声が近づいてきた。


すると牟田口は当時4日後に移動を予定していたにもかかわらず、「今日すぐに出発する」と発言して周囲を狼狽させた。



1944年8月頃、第31師団歩兵第58連隊の生き残りである内山一郎・高野(戦後上村に改姓)喜代治の両上等兵は部隊の集結点とされたシッタン周辺に居た。



2人はそれぞれ少し離れた場所に居たが、前線視察に出てきた牟田口と15軍司令部の一団を目撃している。



内山によれば牟田口は傷病兵を見て「貴様等のこのざまは何だ。それでも帝国陸軍か!こういうのを魂の抜け殻と言うのだ」と怒鳴り散らしていた。


それでも兵達は動こうとしなかった。



また、兵隊達が年次の低い兵を小突くように、お供していたある少佐を衆目の面前で「軍法会議ものだ。恥を知れ恥を」と殴りつけた。



高野が見たその少し後の場面では、撤退し、他の将兵と同じようにぼろぼろとなっていたある師団の少佐が牟田口を見つけ、路上で申告した。



牟田口は「貴様は病気を口実に後に下がった。自分の部下をどうしたのか。病気は何だ」と難詰し、少佐が「負傷とマラリアと下痢であります」と答えると「そんなものは病気じゃない。貴様のような大隊長が居るから負けるんだ。この大馬鹿者」と手持ちの杖でその少佐を何度も叩いた。



高野もこの一団に誰何されたが、その際の内心を次のように書いている。



「てめえらにシンから敬礼する気持ちのある兵隊なんざあ、一日中駆けずり回ったところで、一人でも居るかってんだ。(中略)てめえら俺達兵隊を虫ケラとでも思ってやがんのか!性根を据えて返答しやがれ!」。





第33師団歩兵第213連隊で大隊長を務めていた伊藤新作少佐は、牟田口率いる第15軍の命令を無謀だと考え、面従腹背で済ませようとした。


しかし、牟田口は伊藤を抗命罪で罷免し、伊藤がシッタンの軍司令部で牟田口に申告を行った際、罵声と共に杖で3回強打した。


伊藤は「予の軍隊生活二十年の間、かくも悔しきことなかりき」と後任の大隊長に送った通信文で述べたと言う。



第15師団長山内正文の戦闘詳報に「撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。



第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり」と名が挙げられている。



イギリス軍のアーサー・パーカー中佐は、昭和37年7月25日に牟田口へと渡された書簡で、意表をついた作戦と評価し、また、師団長の後退がなければ、最重要援蒋ルートであるレド公路への要衝でもあり、インパールへの補給・増援の起点でもある要衝ディマプールは落ちていたかもしれないと牟田口を高く評価した。


もっとも、たとえディマプールを占領できたとしても、維持できたかどうかは別問題である。



このパーカー書簡を読んで以後、牟田口は戦後それまでの謝罪活動を止め、上述のように自己弁護につとめた。




読売新聞は、1970年頃に紙上で『昭和史の天皇』と題した太平洋戦争関連のドキュメントを連載し、後に書籍化した。


同書はその中で牟田口の弁明について一章を設け、「失意のどん底にあった老将軍が、日頃の鬱積した恨みをこの小冊子にぶちまけたとしても、何も目くじらを立てて非難するには当たらないだろう」と記述した。



高木俊朗は「個人的主観の評言が客観であるべき史書の記述に混じっているのは異様」と批判した。



半藤一利も、兵站や部隊機械化を軽視する日本軍の風潮の極北の存在としてインパール作戦の失敗は牟田口の一連の作戦指導に責任があるという立場から、愚将と見做している。



ウィリアム・スリム中将


イギリスでは、第14軍司令官ウィリアム・スリム中将が回想録Defeat into Victory でインパール作戦を痛烈に批判しており、「日本陸軍の強みは上層部になく、その個々の兵士にある」と下士官兵を賛辞する一方で、「河辺将軍とその部下」ら高級指揮官については「最初の計画にこだわり応用の才がなく、過失を率直に認める精神的勇気が欠如」「日本の高級司令部は我々をわざと勝たせた」と皮肉っている。

ジョセフ・スティルウェル陸軍大将


軍事史研究者のジョン・フェリスは「無能」の一言で切り捨てている。



他方、ウィンゲート旅団参謀長のデリク・タラク少将は著書で、牟田口の作戦指導についてはイギリス側からジョセフ・スティルウェルやクレア・リー・シェンノートに対するのと並んで低評価されているとしたうえで、インパール作戦以外の主要戦闘では勝利を収めており、最後のインパール作戦でもワーテルローの戦い以上に劣勢な戦力で非常に際どいところまで戦ったと高く評価している。




インパール作戦当時は参謀本部第三部長、牟田口の予備役編入後の1945年(昭和20年)2月に陸軍省人事局長となり、陸軍消滅まで同職にあった額田坦中将は、下記のように牟田口に同情的な見解を述べている。



1.参謀本部第三部長であった額田はインパール作戦の経過を注視しており、コヒマ進出を聞き狂喜していた。コヒマという要衝を占拠しながら、まさか佐藤幸徳師団長が独断退却に決するとは夢想だにしなかった。牟田口軍司令官の無念のほどは察するに余りある。



2.戦後、当方面の英軍参謀中佐は牟田口中将に書面を寄越し「何故もう一押ししなかったのか?当時英軍は危機に瀕していた」と書き、特にコヒマ進出を称えていた由。



3.多くの書類に、本作戦の強行は、「牟田口軍司令官の熱意に押しまくられた」と書かれているが、牟田口軍司令官の企図が無謀ならば、河辺正三方面軍司令官はなぜこれを抑えなかったか。


さらに総軍は如何。総軍は、1944年(昭和19年)1月には綾部橘樹参謀副長を上京させて、本作戦の遂行を具申している。


そして、大本営はついにこれを承認した。




4.牟田口中将の帰還、予備役編入は一応やむなしとするも、もし本作戦が最初から無謀で決行すべきでなかったとすれば、インパール作戦開始前に転職せしめるべきではなかったか。


作戦開始後、頽勢挽回の出来ない1944年(昭和19年)8月ともなれば、そのまま現職を遂行させて、牟田口中将にビルマで死処を与えるべきではあるまいか。



これが「葉隠れ武士」に対する礼であったように考える。




5.インパール作戦後、牟田口中将が予備役に追われたのに対し、河辺中将が現役に留まって1945年(昭和20年)3月に大将に親任され、同年4月に航空総軍総司令官に栄進したのには割り切れない感を持つ。



以上の様に、牟田口に関しては司令官としての資質を疑問視する声が強い。



これらは主にインパール作戦においての暴走、大敗北に起因する物であるが、必ずしも牟田口の暴走のみにより作戦が決行された訳ではない、勝敗は紙一重の所であった、など、牟田口の作戦指揮に対して好意的な解釈も一部に見られる。