辺見庸を思う | tanjunkeikaku(停止原基)

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冬は内海から南の向うだな、のっぱらにでも昼寝して横目で海ちゃながめんべ

日常の些細な経済性に右往左往しながらも、カネまみれ、商売まみれの現在の社会状況に辟易していた。だからといって、共産党のこすからさも骨身にしみており、どうしたものか、こうした現象に辟易すること自体「負け犬の遠吠え」に過ぎないのか、と疑問が増していた。そこで、なぜか、避けていた辺見庸という老作家の著作に出くわした。

無神論者、筋金入りのアウトサイダーであった。山谷の近くに居を構え、路上生活者たちを観察し、いくつかの論考を試みている。さらに、最近では、安保反対のシールズを徹底的にこき下ろし、それに準じる作家たちにもその舌鋒は向かっている。

全面的に賛同するわけにはいかない。吉本隆明との対談で、吉本を楽観的だと、一刀両断するやみくもなエネルギーには拒否感も覚える。ただし、糸井重里の「吉本隆明超人論」(多分商業的な論理構成だ)に対しては拒否感を持っており、どちらかといえば辺見庸の考え方のほうが気に入っている。

死刑廃止、戦争禁止にこだわっており、現在の社会環境を「都合のいい忘却社会」と切って捨てる。最後まで、喚き散らして、欲しいものだ。ところが、体調のせいか、最近の声はあまり聞こえてこない。

辺見庸の著作の中で私が気に入ったのは、美意識だ。弱いもの、どうしようもないものに美しさを感じる感性は、高木護や金子光晴や深沢七郎に通じるものがある。ただ、彼らが積極的に社会とコミットするのではなく、内面に宇宙を見出す方向を貫いているのに対して、辺見庸は社会のなかで、存在しようとする。病床でも不自由な指で、キーボードをゆっくり押し続け、自伝的なエッセイを書いている。「審問」は、詩人のようだ。柿の木で自死したキリスト者の娘さんの光景は、キリスト者とのやり取りも交えて、社会的ではない辺見庸の詩的な世界に入り込んでいる。その立脚点から社会性を批判することは無理があることは本人もどうやら気が付いているようだ。

結局はジャーナリストという特権意識から抜け出していないのだろうか。中途半端なジャーナリストであることを若いうちに諦め、経済の荒海で生きることでジャーナリスト以上に影響力を持とうと試み、何度も挫折しかかっている私から見ると、女性関係で破たんした先輩の優秀なジャーナリストを思い出してしまう。

コンサルタントとして、もう一度活動を開始しようと思い至った現在、辺見庸を知り、著作を読み込んでいるのは、いいことなのか、悪いことなのか、判断しかねる。ただ、私は徹底した無神論者にはなりきれそうもない(佐藤優のように)。せいぜいがクェーカーや無教会のラジカリズムに惹かれるくらいだ。パテックフィリップを買い集めジャギュアを嬉しそうに乗り回すカソリックの間抜けな歯科医ほど、ばかではないが。