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「本気でそう思っているの?」
「試験官に見せることが大切ですよね?」
「何を言っているの?」
教員採用試験を直前に控えた受験者との会話である。
「恐らく,この受験者は学習指導案が書けないのだ。学習指導案作成(の試験)も,模擬授業(の試験)も及第点は取れないな。」
私の率直な感想である。
パフォーマンス(performance)
1 演劇・音楽・舞踊などを上演すること。また、その芸・演技。
2 身体を媒介とした芸術表現。演劇などのほか、特に現代美術での表現をさしていう。「前衛書道家によるパフォーマンス」
3 人目を引くためにする行為。「街頭宣伝のパフォーマンス」
4 性能。機能。また、効率。「旧型でもパフォーマンスはいい」「コストパフォーマンス」
コトバンク:パフォーマンス(読み)ぱふぉーまんす,デジタル大辞泉の解説,出典 小学館
この受験者は上記引用中の「3」の意味合いで「パフォーマンス」とか「見せる」とか言っているのだろう。〈授業〉そのものに対する発想の台座が狂っている。「1」や「2」の意味合いで「パフォーマンス」という言表を使用していたのならば,それは「パフォーマンス(パフォーマー)」に対する冒瀆だ。
模擬授業は飽くまでも〈授業〉だ!!
思ったとおり,当該の受験者はさっぱり学習指導案が書けなかった。書き方の基本すら知らない。書くための「知識」がないのだ。だから「パフォーマンス」に逃避するのだ。逃避したところで,一体何を「パフォーマンス」する/「見せる」のだ?
学習指導案を書くためには,まずはしっかりとした当人の教科学力が必要である。学習指導案はその上に成り立つ。逆に言えば,学習指導案を一瞥すれば,書き手の教科学力がほぼ分かる。意外とこの〈事実〉が教育界では抜け落ちている。
模擬授業は学習指導案がカチッと書けていて初めて成立するものだ。
「学習指導案はざっくり書けば良い。「導入」だけの模擬授業だから,その構想に傾注する。試験時間も短いのだから,いちいち全体構想を考え,学習指導案を書いていたら,「導入」に向けた「パフォーマンス」を構想する時間が取れない!」
本時で付けたい力(指導目標/めあて)が前提にあり,全体構想があって「導入」や「まとめ」が成り立つ/意味性を持つ。最も大切な本時で付けたい力を抜きにして「導入」を考えている実態が受験者にあった。一体,それって,何を構想するのだ? 試験官に対して奇を衒うことか? だから,「パフォーマンス」なのか? 抑々「ざっくり」も書けていない。学習指導案が捻れている(本時の目標,めあて,まとめ,予想される学習者の姿(解答)及び評価に相関性が全くない。バラバラ)。模擬授業(の試験)を文字どおり「モギジュギョウ」と捉えているのだ。誰かにそう教え込まれているのだ。
模擬授業は飽くまでも〈授業〉だ!!
略筆すれば,まず眼前にいる児童・生徒(学習者実態)を想定(分析)し,単元計画に沿って(単元目標から)本時の目標/めあてを設定する。その上で,最適の学習方法,学習形態,提示資料及び教具等を考えながら,「展開」部のメインとなる学習活動(や質問,発問―発問間でもレベル差を考えよ!―)を考え,それを生かすために相応しい「導入」を構想する。その際,学習指導要領を熟知しておくことが必要だ。
「短い試験の時間の中で,学習指導案を書き,「導入」の構想を練らなければならない。時間配分から考えれば,「導入」の構想に比重が掛かるのは当たり前ではないか! 当然,学習指導案の作成には時間を掛けず,ざっくりと書くしかない!」
「これまで学習指導案作成の練習にどれだけ時間を掛けてきたのか? 書いた学習指導案をプロに見てもらったのか? 練習に時間を費やし鍛錬していれば,(試験程度の)学習指導案の作成にそれほど時間は掛からないものだ!!」
一教師は一研究者也
今回の最後に一言。
〈授業〉というものは,学習指導案が書ければできるというものではない。先述した教師(教授者)の教科学力は大前提となる。無論,授業スキルも必要だ。
意外と気づかれていないものは〈生徒指導力〉だ。「学習指導と生徒指導とは車の両輪」などとよく言うが,まさにそのとおりだ。児童・生徒(学習者)に対する十分な理解(学習者の実態把握)があって,教授者の人間関係形成能力(≒広義の「コミュニケーション能力」)がモノを言う。それは教室の〈内/外〉で必要だ。つまり,「学習者―教授者」間の信頼関係があり,授業規律の確立した,生徒指導の三機能を生かした授業づくりがあって,ねらう〈学力〉が学習者に付くのだ。
さらに,最近,特に思うことは「教授者に〈問題解決能力〉が身に付いていることが重要だ。」ということだ。ところが,〈問題解決能力〉は今になって求められ始めた〈能力〉ではない。昔から求められている〈能力〉だ。ただし,現代の社会システムがあまりにも複雑な様相を呈し始めた。社会を構造化する繊維は絡まり合っている。だが,そうかと言って,その一方では,「価値観の多様化」というものの,「価値」自体が〈価値性〉を喪失し,「エゴイズム(egoism)」が蔓延,多層化しているのが実態だ。「環境問題」を初めとする地球規模の難問が湧出しているにもかかわらず,未だ解決の糸口は見つかっていない。したがって,〈問題解決能力〉の向上が声高に叫ばれるのも当たり前と言えば当たり前と言える。時代の要請とも言える〈問題解決能力〉は大人をもこどもをも対象とするものであるから,必然的に教育界に求められる〈能力〉となる。その〈能力〉を教員が身に付けていないとしたならば…。
一教師は一研究者なり。
当塾がこのように語る所以がそこにある。大学の卒業論文程度の〈学力〉では物足りない。その左證は学校現場にある。特に,「総合的な探究の時間」が本来の意味で〈探究〉の時間になっているのか?
今,教員に〈研究能力〉が求められている。こうした〈能力〉も授業を実践する底力の一つである。模擬授業を一瞥すれば,大体見て取れる〈能力〉の一つでもある。
もう1点。「教師はファシリテーターであれ。」と言われて久しい。
ファシリテーター
ファシリテーターとは、ファシリテーションを専門的に担当する人のことをいう。ファシリテーター自身は集団活動そのものに参加せず、あくまで中立的な立場から活動の支援を行うようにする。例えば会議を行う場合、ファシリテーターは議事進行やセッティングなどを担当するが、会議中に自分の意見を述べたり自ら意思決定をすることはない。これにより、利害から離れた客観的な立場から適切なサポートを行い、集団のメンバーに主体性を持たせることができるとされる。「調整役」「促進者」などと訳される。
コトバンク:ファシリテーター(読み)ふぁしりてーたー,ナビゲート ビジネス基本用語集の解説,出典 ナビゲート,マーカーは筆者による。
しかし,AIの本格的な導入を目前に控え,上述したような難題を解決する可能性が高まる中,AI導入期には〈問題解決能力〉と共に〈創造性〉が必須となる。それは〈教師〉にとっても必須の〈力〉である。授業構築だけではなく,教育活動全般に及んで必要とされる〈力〉と言えよう。
教師はファシリテーターであるだけでなく,クリエイターであれ。
これも当塾の教えの一つである。例え「導入」部であれ,一瞥すれば,教科学力・授業構想から授業スキルに至るまで,教授者の〈創造性〉を見て取れるものである。
だが,よく考えるまでもなく,〈創造性〉も〈教育〉の〈不易〉の代表なのである。これまたこれから初めて求められる〈力〉ではない。
模擬授業を侮るなかれ。〈授業〉は教師そのものを投影する〈教師〉の総合体である。
実力(提供 photoAC)
教員採用試験における模擬授業を「パフォーマンス」で乗り切ることはできない。そうした「思い」が生起する原因は〈授業〉の何たるかを知らないか,〈授業〉を軽んじているかのどちらかにある。つまり,〈真面な〉教員の発想ではない。ということは,「〈授業〉は教師そのものを投影する〈教師〉の総合体である」ことから,〈授業〉を軽んずることは〈教師〉そのものの存在を〈軽んずる〉ことになる。
遺憾ながら,これが風潮なのかもしれない。様々な要因が憶測されるところではある。ただ,現況として学校現場に「授業」を軽んずる傾向がある。ここでは,それが目的ではないので,その傾向の要因を分析することはしない。
しかし,新学習指導要領にこっそりと垣間見えるように,系統学習と問題解決学習との止揚(aufheben)を図ろうとするならば,改めて〈授業〉を見直すことが喫緊の課題である。
教員採用試験の受験者は少なくとも前述したくらいの〈授業〉観を持って,試験に臨んで欲しい。筆者は(乳幼児・)児童・生徒(学習者)と共に,教師(教授者)が〈授業〉を〈共創造(co-creation)〉する日が到来することを願って已まない。
さて,上述してきたような〈資質・能力〉を完璧に引っ提げて教員採用試験に臨むことは確かに至難の業だろう。だが,こうした高みを目標に設定し,来る日も来る日も教育事象にかかわる課題に真摯に取り組み,学習指導案,模擬授業,グループワーク,小論文,個別・集団面接,そして市販の問題集等の練習を重ね,ある程度の〈総合的な実力〉を蓄えたならば,例えば,総合体としての〈教師〉が試される模擬授業で何も「(取り繕う意味の)パフォーマンス」を行う必要は一切ないのである。なぜならば,〈自己の内なるパフォーマンス〉が試験の場において必然的に発露するからだ。
しかも,その蓄えられた〈総合的な実力〉は,近いうちに出会うであろう(新しい)(乳幼児・)児童・生徒に対して発現するのである。
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