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目 次

1 修士論文の周辺
2 新学習指導要領及び解説国語編に散見できる言表「語り手」
3 新学習指導要領及び解説国語編に散見できる言表「他者との関わり」
4 今,なぜ「語りの構造読み」なのか?
(1) 現代の児童生徒観
(2) 社会的連関に拘る自覚を欠いたツァイトガイスト
ア 他者とのつながりと視点
イ いじめの問題と視点とつながり
ウ 柔軟性に富む多視点形成の重要性
エ 実の場に生かされる〈学び〉
オ アナクロニズムの教育界
5 次回の予告

 

 

 

0 プロローグ

 

生きる自分への自信を持たせる
「鍛地頭-tanjito-」の塾長 小桝雅典と副塾長の住本小夜子です。

塾長が20年前に発表した国語教育に関する修士論文の内容(概念)と同一の内容(概念)が,今次改訂の新学習指導要領(国語)及び同解説(国語編)に散見されます。

 

その内容は作品(教材)の〈読み〉についてのもので,概念的には少し難解なところがあります。

塾長はその〈読み〉を「語りの構造読み(=語りの構造を踏まえた読み)」と呼んでいます。

 

今次改訂では,その概念のさわりだけが主に(中・)高等学校の記述に見受けられますが,恐らく,時代背景と教育の趨勢を鑑みるに,今後の改訂においてその色を濃くするものと考えられます。いずれは小学校・中学校でも大々的に取り扱われる内容となることでしょう。つまり,学校教育における作品(教材)の〈読み〉が大きく変わってくる(はず)ということです。ということは,広く国民の〈読み〉も,今後,大きく変わってくる可能性があるということです。

 

そこで,当塾では,今次改訂分の記述内容(新しい〈読み〉の概念のみ)を国語教育の専門的視点からわかりやすく解説しようと思います。アメブロでは一般向けにやさしく,そして当塾公式ブログ「BLOG「鍛地頭-tanjito-」」(「鍛地頭-tanjito-」の国語教育論)では国語教育を目指す皆様方を初め,新しい〈読み〉に関心をお持ちの皆様方に専門的に解説いたします。

 

少しでも児童生徒や学校・塾の先生方を初めとする皆様方のお役に立ちたいので 。

 

なお,この新しい〈読み〉は,学校教育だけに適用される〈読み〉ではなく,広く国民の皆様に推奨申し上げたい〈読み方〉です。これまでの「読み方」の次元を超え,必ずや新たな作品世界に出逢えることと思います。お手元で読み古された作品群の多くは,きっと別次元の〈作品世界〉の相貌を見せてくれることでしょう。しかも,この新しい〈読み〉は,自分自身や自己を取り巻く他者(人間,自然,現象(人間界及び自然界の出来事)及び神仏など)との〈対話〉を促し,自己のものの見方や考え方を振り返る機会を与えてくれるのです。そのことは,直接的にも,間接的にも〈自己の生き方〉を見つめ直し,〈他者とのつながり〉を考えさせることにより,自己を成長させ,人生を〈豊かにする〉ことにつながります。

 

どうぞ当塾の解説にご期待ください。(大きなことを言ってしまいました。大丈夫かな? (笑))

 

注 「新しい〈読み〉」と表記しましたが,(文学作品を中心とする)学問の世界では既に〈古い〉読みと言って過言ではありません。現在では,新学習指導要領をはるかに超えた本来の意味での《新しい読み》が行われています。その点をご了承ください。また,この〈読み〉の専門家は,現在,大学の先生方を初めとして多くおられます。したがいまして,私は,偶々,20年前にこの〈読み〉を学校教育(特に,古文文学教育)に導入するよう提唱したに過ぎず,私が学習指導要領の世界を変えたわけではありませんので,お間違えのないようにお願い申し上げます。(当たり前か!?(笑))

 

 

1 修士論文の周辺

 

本章の主なコンテンツ(内容)は,次のとおりです。

当塾の公式ブログ「BLOG「鍛地頭-tanjito-」」の方に綴りました。

  • 修士論文を執筆するまでの経緯等
  • 修士論文執筆後の(塾長の)教育観及び作品(教材)の〈読み方〉の変遷

本章には本ブログ末に示した「参考論文及び文献」及び「関連ブログ」の一部が掲載してあります。より専門的に「語りの構造読み」(=「新しい〈読み〉」)に親しまれたい方は,これらの論文,文献及びブログを是非ご一読ください。なぜならば,「語りの構造読み」を理解する上での基礎的な記述があるからです。理解促進のためです。

 

 

 

 

 

 

 

2 新学習指導要領及び解説国語編に散見できる言表「語り手」

 

新学習指導要領(高等学校国語)及び解説(中学校・高等学校 国語編)に「語り手」概念が導入されました。これまでにない概念の導入ですから,一つの大きな特色と言えます。この「語り手」概念は,「語りの構造読み」の根幹を成す概念ですから,とどのつまり,新学習指導要領(国語)は,高校生を中心とする中学生をも含め,「語りの構造読み」を求めていることになります。(小学校に「語りの構造読み」(「語り手」概念)は導入されておりません。)

 

 

 

 

3 新学習指導要領及び解説国語編に散見できる言表「他者との関わり」

 

修士論文のキーワードの一つに,〈他者とのつながり(関わり)〉があります。〈対話〉は他者(人間,自然,現象(人間界及び自然界の出来事)及び神仏など)との 〈つながり(関わり)〉を形成するための一つの重要な方途です。

〈他者とのつながり(関わり)〉は,大学院で学んで以来,私の人生における最も大切なキーワードとなっています。教育に奉職していた折にも,(児童)生徒実態に窺える総体的,かつ,最大の課題は〈他者とのつながり(関わり)〉意識の欠如であり,そこから生起する〈他者との つながり(関わり〉の形成における破綻と捉えていました。いじめの問題も,様々な態様について様々な原因が考えられるものの,この〈他者とのつながり(関わり)〉の意識の欠如が一つの要因だと言えるのではないでしょうか。ですから,学校での授業や主任,管理職及び教育行政職員としての講話等では,常にこの〈他者とのつながり(関わり)〉を意識して(児童)生徒,あるいは校長先生方を初めとする先生方にお話をさせていただいたものです。

その「〈他者とのつながり(関わり)〉意識及び形成が重要である」と読める言表が,今次改訂の新学習指導要領(国語)に色濃く表現されているのです。高等学校学習指導要領(国語)及び解説国語編の言表「他者との関わり」は,その代表的・直截的な言表と言えます。


 

 

 

 

 

 

4 今,なぜ「語りの構造読み」なのか?

 

(1) 現代の児童生徒観

 

本章では単語化現象に着目し,20年前の児童生徒(若者世代)の語彙運用能力の低下について言及しています。しかし,そうした傾向は「ことばを媒介とした社会的連関(人間関係)が生存の基底であるとの自覚」を検証軸に掲げた場合,当時の,そして現代の大人世代にも同様であることを,ブログ言説に触れながら指摘しています。

 

 

 

 

(2) 社会的連関に拘る自覚を欠いたツァイトガイスト(時代精神)

 

ア 他者とのつながりと視点

 

「(僕には・私には)関係ないよ。」

 現場でよく耳にする生徒のことばである。筆者は現代(「現在」と呼ぶ方が正しいのかもしれない)の生徒気質をこのことばに読む。これは他者との交流を断絶した生徒実態を如実に物語ることばである。仮にここで,〈「関係」=「交流」=「繋り」〉が成り立つと仮定するならば,このことばは筆者には,

 「(僕には・私には)繋り(「交流」)はないよ。」

に聞こえてならないのである。「人(他者)」との繋りがないのである。しかも,このことばは往々にして他者あるいは集団に積極的な関与・参入を求められる場面で発せられることが多い。ということは,このことばには生徒の意志が直截的に投影されているのである。すなわち,このことばは「繋りがない」のではなく,

 「(僕・私は他者との)繋りを持ちたくないよ。」

と言っているのである。

 「人」は決して一人では多様なものの見方や考え方を構築できない。自己とは異なる価値観を有する複数の他者が周囲に存在するからこそ,その連関の中で他者のものの見方や考え方を対象化・相対化し,自己の発達段階を基軸に他者のそれらを取捨選択した上で,自己に適合する形に咀嚼・変容・摂取してゆくものなのである。このように考えるならば,不幸にも現在の生徒たちは,多様なものの見方や考え方を摂取する機会を自ら放棄した集団ということになってしまう。

上掲論文A,pp.2-3,下線は本ブログを作成する上で施したものです。以下,上掲論文Aに関しては同様。

 

引用文中の下線部は,「自己―他者」間の〈対話〉のみを語っています。しかし,人間の営みにおける対話は,それのみの連関性で行われているのではありません。「自己―自己」間の〈対話〉(=〈モノローグ〉)でも行われているのです。よく「〈自己内対話〉」と言います。その人の生きてきた環境(成育歴,家庭環境,友人関係及び広い意味での学力など)に気質も相俟ってつくりあげられた「自己内の他者」(=通念上の「自分自身」)との〈対話〉のことです。読者の皆様も日常的に(心の中の)自分(自身)に語り掛けておられるのではないかと思います。つまり,上記の引用では,「他者」との「繋り」を自ら断絶することにより,「現在の生徒たちは,多様なものの見方や考え方を摂取する機会を自ら放棄し」ていると指摘しているのですが,実は,それだけではなく,「自己(内の他者)」(=「自分自身」)との「繋り」をも自ら断絶していることを補足しておかなければならないと考えるのです。

 

また,「自己」及び「他者」との「繋り」を自ら絶縁しているのは,大人世代も同様であることを敢えて指摘しておかなければならないのだとも考えるのです。時代はモダンからポストモダン,そしてトランスモダンへとその相貌を変えつつあります。現在をポストモダンからトランスモダンへとより傾斜した過渡期であると捉えるならば,リオタールの述べた「小さな物語」は微細に細分化した「小さな小さなモノローグ」となった現状があるのではないのかと,私には思えてならないのです。すなわち,価値観の多様化が叫ばれて幾久しいわけですが,価値観そのものが空洞化・形骸化してしまったと思えてならないわけなのです。矛盾を孕んだ言い方で述べれば,個に迎合した,(当該の)個のためだけのご都合主義的な(敢えて呼ぶとして)「価値観」に溢れる人世になっているのではないのかと。換言すれば,「自己」とも,「他者」とも〈対話〉を取り止めた(=〈他者とのつながり〉を断った)単一視点(=独り善がり)の主張に満ち溢れる人の世が,現在の世相ではないのかということなのです。それでも,現在が「価値観の多様化の時代」であると主張する向きがあるとすれば,それは各個人の〈単一視点による主張〉を〈単一視点〉によって単に「価値観」と見誤った可能性があると思うのです。そして,私にはそうした様相が〈他者とのつながり〉を欠いた,〈孤立〉し〈孤独〉な〈お寒い〉現況に見えるのです。

 

 

イ いじめの問題と視点

 
仮にこうした見方が是であるならば,大人社会においても,こども社会においても,当然のこと,「いじめの問題」は生起し続けるのです。とても遺憾でなりません。
 
ここで,〈視点〉と〈つながり〉に関連付けて「いじめの問題」について言及する前に,どうしても確認しておかなければならないことがありますので,それを先に述べます。それは,「いじめの構造」についてです。

 

 

図 いじめの4層構造図

 

 

いじめは「いじめられるこども,いじめるこども,観衆及び傍観者」の4層構造で捉えられています。この捉え方は,今や日本の教育界では常識となっています。「観衆」は所謂いじめの現場の取り巻きを意味しており,いじめの現場にあって囃し立てるなど,いじめに間接的に加担している層を指します。また,「傍観者」は自らがいじめの対象となることを恐れ,見て見ぬ振りをするなどの層を指します。以下の引用は,いじめの構造を「いじめられるこども,いじめるこども及び傍観者」の3層構造で捉えていますが,それは,現在の定義とは異なっておりますので,予め補足しておきます。
 
なお,「観衆」も「傍観者」も,そのいずれもがいじめを助長する存在であるとの認識を私たちは有しておかなければなりません。

 

 遺憾ながら起きてしまった「いじめ」(3)に関わる生徒たち(「いじめられた生徒」を除く,「いじめた生徒」及び「周囲で傍観する生徒」を含む)が,

 「(僕は・私は)いじめてないもん。」

と口々に述べるのも,現在の生徒の在り方として「関係ないよ。」を連発する生徒実態と同様の位相を示していると言えるのであろう。ましてやいじめの現場を傍観していた生徒にとって「いじめてないもん」は,いじめの行為を直接行わなかった自己を,当然のことのように正当化できる至極便利な言表なのである。しかし,果たしていじめの現場を傍観することはいじめの行為に該当しないと言い切れるのであろうか。答えは否である。にもかかわらず,一方向性の思考しか持ち得ない数多くの生徒たちは,間接的ないじめの行為である傍観によりいじめとして顕在化しなかった自らの明らかないじめの行為を,いじめの行為ではないものと認識してしまっているのである。つまり,彼らには一事象を多視点から捉え得る能力が育っていないのである。

前掲論文A,p.3,註(3) は,本ブログの主旨とは直接関係がないため,省略しました。

 

少々,断定的な記述を基調とする引用です。特に下線部については,傍観がいじめに加担することであるとの認識を有しながら,其の場凌ぎに,咄嗟に用いた言表である場合も想定されますので,全ての「傍観者」が「一方向性の思考しか持ち得ない」わけではないのです。ただし,「一方向性の思考」が固定化した生徒が数多いこともまた事実なのです。

因みに,引用文中には「間接的ないじめの行為」とあります。しかし,現在の私は,いじめられるこどもの視点から「いじめに直接も間接もなく,いじめは〈いじめ〉である」との認識を有しています。

さらに,「一方向性の思考の固定化(=固定観念の形成)」(≒単一視点)を鑑みるとき,それは何も生徒(=若者世代)だけの話ではないことが分かります。大人世代にあってもそうであるし,却って,大人世代の方がその傾向が顕著であるとすら言えるのです。そういう私も,ちょっと気を許し,身の回りの現象との〈対話〉を疎かにしたとき,固定観念の呪縛に陥っている〈自分〉にはたと気づくことがあるのです。

 

 

 

 

 

ウ 柔軟性に富む多視点形成の重要性

 

「多様であり,且つ柔軟性に富む視点」形成を媒介にして,学校の授業における「教授者―学習者」関係を考察するとともに,法的拘束力を有する(新)学習指導要領に「語りの構造読み」(「語り手」概念)が導入された所以をその視点形成に窺います。

 

 

 

 

 

エ 実の場に生かされる〈学び〉

その新学習指導要領において「資質・能力」「カリキュラム・マネジメント」の基盤となる考え方に「社会に開かれた教育課程」があります。

 

社会に開かれた教育課程

・そのためには、子供たちの学校生活の核となる教育課程について、その役割を捉え直していくことが必要である。学校が社会や地域とのつながりを意識する中で、社会の中の学校であるためには、教育課程もまた社会とのつながりを大切にする必要がある。学校がその教育基盤を整えるにあたり、教育課程を介して社会や世界との接点を持つことが、これからの時代においてより一層重要となる。
・これからの教育課程には、社会の変化に目を向け、教育が普遍的に目指す根幹を堅持しつつ、社会の変化を柔軟に受け止めていく「社会に開かれた教育課程」としての役割が期待されている。
 このような「社会に開かれた教育課程」としては、次の点が重要になる。
1.社会や世界の状況を幅広く視野に入れ、よりよい学校教育を通じてよりよい社会を創るという目標を持ち、教育課程を介してその目標を社会と共有していくこと。
2.これからの社会を創り出していく子供たちが、社会や世界に向き合い関わり合い、自らの人生を切り拓(ひら)いていくために求められる資質・能力とは何かを、教育課程において明確化し育んでいくこと。
3.教育課程の実施に当たって、地域の人的・物的資源を活用したり、放課後や土曜日等を活用した社会教育との連携を図ったりし、学校教育を学校内に閉じずに、その目指すところを社会と共有・連携しながら実現させること。
・このためには、教育課程の基準となる学習指導要領及び幼稚園教育要領(以下「学習指導要領等」という。)も、各学校が「社会に開かれた教育課程」を実現していくことに資するものでなければならない。
・さらに、こうした教育課程の理念を具体化するためには、学習・指導方法や評価の在り方と一貫性を持って議論し改善していくことが必要である。本「論点整理」はこうした問題意識の下、学習指導要領等の在り方に留(とど)まらず、これからの教育の在り方全体を視野に入れて、教員の在り方や教育インフラ等についても取りまとめている。

中央教育審議会 初等中等教育分科会 初等中等教育分科会(第100回) 配付資料 資料1 教育課程企画特別部会 論点整理 1.2030年の社会と子供たちの未来 (1)新しい時代と社会に開かれた教育課程 登録:平成27年11月

 

教員時代,私が懸念していたことの一つに,学校(教育)での学びが〈閉じた学び(=社会に開かれていない学び≒受験のためだけの学び)になっていることがありました。学校は社会に位置付いていながら,ある種の特殊な非日常的空間(部分社会)なのです。その左證に,国語教育以外の私の専門である生徒指導において,次の言葉があります。
 
「社会で許されないことは,学校でも許されない。」
 
この言葉は正に学校という空間(非日常性)が社会という空間(日常性)と多少なりとも乖離していることを意味しています。勿論,社会人と比して,発達段階の及ばない児童生徒が集う空間(共同体)が社会という空間(共同体)と同一になるとは考えられません。しかしながら,社会人に向けての発達途上にあり,特殊な部分社会である学校の学びが, 〈社会へと連続した学び〉にならないのでは,何のための学びなのかと訝しく思うわけなのです。
 
そうした意味において,上記の引用は〈開かれた学び(=社会へと連続した学び〉)の実現を明確化するものであり,前掲論文Aで述べた「実の場」に生かされる〈学び〉と通底していると考えるのです。

 

オ アナクロニズムの教育界

 

20年前に指摘した教育観及び教育方法が,漸く今次改訂の新学習指導要領に,しかも,そのさわりだけが導入されるようになりました。時代はポストモダンが終焉を迎え,トランスモダン(≒ポスト・ポストモダン)の時代を迎えようとしています。教育界のアナクロニズム(時代遅れ)を憂うとともに,「語りの構造読み」が教育界に差し込む一筋の閃光となることを期する節です。

 

 

 

 

5 次回の予告


次回は,愈々,「語りの構造読み」のキーポイントとなる「語り手」概念についてお話いたします。アメブロの例話には,広島東洋カープと読売ジャイアンツが登場します。アメブロとBLOG「鍛地頭-tanjito-」(「鍛地頭-tanjito-」の国語教育論)では,例話を変えていますので悪しからず。

ああっと,予めお断り申し上げておきますが,私は当然広島東洋カープのファンです。ということは…,カープの引き合いに出されるジャイアンツファンの皆様,誠に申し訳ございません。

因みに,BLOG「鍛地頭-tanjito-」で扱う作品(例話)は『平家物語』です。
 

 

 

 

【参考論文及び文献】

 

【関連ブログ】

 

 

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