広島原爆投下に関する若干の事実 ②では、爆心地から約400mで被爆した広島市立第一高等女学校の記録、および、調査結果から明らかになる問題点等について述べる。
まず、爆心地から約400mの屋外で被爆した広島市立第一高等女学校1年生243人の避難と死亡状況の調査結果について述べる。
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(出所:広島市立舟入高等学校所蔵文書(広島県立文書館)、『流燈』1957,1962,1977,1994, 2000、『証』2005 広島市立高等女学校、『創立60周年記念史』1981広島市立高等女学校、2000年6月22,23日付中国新聞「ヒロシマの記録-遺影は語る」、) |
広島市立高等女学校(通称は広島市女後に舟入高等学校)は、原爆被害を受けた広島市内外31校中生徒666人教員10人計676人という最大の死者数という甚大な被害を受けた。そのうち調査の対象としたのは,12,13歳の1年生1組~6組,277人のうちの状況が判明した243人である。分析した資料は、一人ひとりを氏名と写真で特定して調査した中国新聞の「ヒロシマの記録-遺影は語る」である。
この調査結果から、生徒たちが熱線で蒸発したり,灰になったりした状況は見当たらない。即死はあったようである、死体に変化が見られないことから判断したという記述がある。即死しなかった生徒、失神したが覚めた生徒たちはどのような状況に置かれたのであろうか。それを知るためにどこに避難したか、死亡日はいつかに視点を置いて分析した。その結果が表1、および表2である。表1を見ると「不明」が大多数の182人75%である。次の現場20人8.2%については、死体の損傷が少ないので即死したと思われる生徒、倒れた塀の下敷きになって死亡した生徒が含まれる。その他の生徒は避難した。熱さに耐え切れず先生と防火水槽にはいった、そこを過ぎて橋まで、また、川岸、「がんぎ」(干満する水位に応じて船の荷や人を積み下ろしできるように設えられた石段)、川原へと避難する途中、「がんぎ」で折り重なって死亡した。川で救助されて船で救護所に収容された生徒も記録されている。「家族自宅」の12名は生前に家族の介護を受けた生徒である。なかに一人無傷で自宅まで帰り、元気に生活していたが、8月末に急に体調が悪化し9月4日に死亡した生徒が居る。家族の介護を受けた生徒が4.9%であるから逆から見れば95%あまりの生徒は被爆後家族に会ううことなく死亡した。表2を見ると実に93%の生徒が6日に死亡している。
表1 爆心地から約400メートルで被爆した広島市立高等女学校1年生の避難場所
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場所 |
現場 |
防火水槽 |
橋 |
川岸 がんぎ 川原 |
救護所 |
家族自宅 |
不明 |
計 |
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人数 |
20 |
4 |
4 |
14 |
7 |
12 |
182 |
243 |
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割合% |
8.2 |
1.6 |
1.6 |
5.8 |
2.9 |
4.9 |
75.0 |
100 |
2000年6月22,23日中国新聞「ヒロシマの記録-遺影は語る」をもとに2014年筆者作成
表の「家族自宅」は自宅その他の場所で生きているうちに家族の介護を受けた人数
表2 爆心地から約400メートルで被爆した広島市立高等女学校1年生の死亡日
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死亡日 |
1945,8,6日 |
7日 |
8日 |
9日 |
10日 |
11日 |
12日 |
13日 |
19日 |
9/4 |
計 |
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人数 |
226推定有 |
3 |
4 |
1 |
1 |
2 |
1 |
2 |
1 |
2 |
243 |
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百分率 |
93% |
7% |
100 |
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2000年6月22,23日中国新聞「ヒロシマの記録-遺影は語る」をもとに2014年筆者作成
市女1年生(12、13歳で当時は平均身長が130cm台であった。243名の中で一人だけ身体測定の記録を残している、松村光子さん13歳である。新聞には遺影とともに遺品の手帳が写真で掲載されている、その手帳には、「身長132センチ體重(たいじゅう)27.5キロ」と記録されている)。当時の中学1年生の体格は現在の小学校4,5年生くらいであった。次に被害の具体的状況の記録を記す。 具体的被爆状況を再現するには、体験記録が極めて重要である。 現場で搜索、救助活動をした親たちの記録を転載する、子供を発見できなかった親たちの心情も記されている。『流燈』の追憶の記から抜粋したものである。それによると、正午すぎから一部の親が捜索、救出にむかった。下記は手記の一部である。
①山崎益太郎さんは「ああ、何たる悲惨。河原一面砂州よりに無残にも何十何百の少女たちが。或いは傷つき或いは眠り、実は既に事切れしか。または弊れ、あちこちに、僅かに蠢動し、かすかにうめき声が聞こえる。驚くことには、どれもこれも素っ裸である。シュミーズもスカート[もんぺ]も焼け、身体は茹蛸のように赤黒色になっている」。
②坂本潔さんは「顔は腫れ目は糸筋の如く頭髪は焼けちぢれ唇は腫れて見る影もない容貌に思わず城子ちゃんかと念をおせばかすかにうなずく。モンペに名前を書いた白布がついている。モンペは膝から下はなく、火傷して皮膚がずるっと下がっていた。」
③前岡清子さんは「私はこう願いたい。茂子は即死でありますように、どれだけかの時間でも、苦しみ、もだえ、「お母ちゃん、お母ちゃん」と叫び続けてくれたであろうと思えば、この母の私はたまらなくなります。」
④桐原千惠子さんは「愚かな母の願いは、今では余り苦しまずに死んだのであってほしいのみである。
上記の保護者の手記①~②を見ると
衣類は焼けて裸のようになり顔は腫れて目は細い筋のようになっている。もんぺの腰のあたりに縫い付けた白布に書いた名前で本人を確認している。どのようなことがあってこんな状態になったのか、熱線で衣類が焼け爆風で吹き飛んだという推測が「経過日誌」に記されている。これと類似した記録が「原子爆弾災害調査研究成績」(都築正雄1951)にもある。初期調査の医学分野の責任者であった都築正雄は「いわゆる「爆熱」として作用し、焦熱した衣服を吹きとばすとともに焼壊死に陥った皮膚をも剥離剥奪せしめることがある。」と記している。そうかもしれない。しかし、そうでないかも知れない。熱戦と爆風にはこの爆心地から約400mの地点では時間差はほとんどないという資料もある、顔はなぜ本人と見分けられないほど腫れ上がったのかという疑問が残る。これらの疑問を説明出来る可能性が頭にうかぶ。それは、熱線による熱は短時間では放射も伝導も少ししかできないので布の表面に溜まる。この熱に触れたやけどを都築正雄は「焦熱傷」または「触熱傷」と名づけている。シャツに触れて背中一面が大火傷になったなどがその例である。少女たちは衣服の色のついたところなどが燃えだしたので脱ごうとしてそこに触れて大やけどをし、脱ぐことができず衣服が燃える間中その炎に体中が焼かれ顔も焼かれた。地面に転がれば布の高熱を体に押し付けることになったかもしれない。もしそうであれば手記③、④の親がそうであって欲しくないという過酷な状況になり焦熱の中で苦しみを苦しみぬいたことになる。そして衣服が燃え尽きて時間が経つと体の生理作用によって顔や火傷をしたところに体液が集まり、個人識別ができないような顔になり、火傷したところの皮膚はズルリとたれた状態になった。とも考えられる。この疑問を解決すれば被爆実態解明は一歩前進する。この疑問点を明らかにするには、科学的で厳密な実験が必要であろう。しかるべき施設において研究者が集まって当時の衣服と同じ各種の布を集め例えば実験の1例では白い綿布に3000度Cを1.5秒間曝射したらどうなるのか等を明らかにして科学的な根拠のある結果を共有する。明らかになる結果は、全ての人に提示されて原子爆弾投下の非人道性を判断する根拠になる可能性がある。
「全員が即死した」「蒸発した」「灰になった」等ということが事実ではないことは、このブログ
で分析しただけでも明らかである。このような事実でないことが流布しているにもかかわらず、少女たちが殺されていった実態が明らかにされてこなかったことは何を意味するのであろうか、残虐な殺され方をしていれば殺人者は人々からより強く非難され殺した罪は重くなりその殺人方法は社会から排除される力が働くことを考慮すると、少女たちがどのような苦しみを苦しんで殺されていったのかという事実は極めて重要である。しかし、研究者にも行政側にも、全ての人が納得する方法で事実を解明し全ての人が理解できるように説明する責任があるという認識が共有されて、具体的に調査、研究が進捗しているという状況は見あたらない。
核兵器使用の非人道性については、1945年8月末から9月初めにかけて被爆者が次々死亡しているというイギリスおよびアメリカのジャーナリストをはじめ欧米の報道機関がその非人道性を問題視したのに対して、アメリカは1945年9月6日にマンハッタン管区調査団の指揮官トーマス・ファーレルが東京で記者会見を行い「広島・長崎では、死ぬべき者は死んでしまい、9月上旬現在において、原爆放射能で苦しんでいる者は皆無だ」という声明を発表した。 そして、以後、原爆報道を禁止した。広島においては中学校の生徒会が発行した文芸誌と生徒会発行の新聞まで直接検閲された(谷整二の博士論文「広島原爆投下時における避難の実態:中等学校生徒の場合」26-27頁)。
しかし、このトーマス・ファーレルの声明は事実ではなかったことがこのブログの表2に示されている。「9月上旬現在において原爆放射能で苦しんでいる者は皆無だ」と述べているけれども市女の1年生だけで9月4日に2名が死亡している。他学年や他校でも9月上旬には多くの生徒が死亡している。
今回は広島市立第一高等女学校1年生の被爆実態を調査し問題点を提示した。
1年生243名の資料を分析しただけで、爆心地域において少女たちがどんな苦しみを苦しんで死亡したのかということを明らかにしていくことの重要性、およびアメリカが放射能の影響で人々が次々に死んでいる事実を否定して原爆報道を禁止し徹底的な検閲を実施したけれども、このブログの分析結果でもアメリカの否定は虚構であったことが明らかになった。
広島市立第一高等女学校が長年調査をして積み上げた資料および中国新聞が一人ひとりを調査したという多くの方々の作業が結実した資料の威力の大きさをここに記して感謝する。
次回 広島原爆投下に関する若干の事実 ③は
、オバマ発言について述べます。