『嘘だらけの日独近現代史』を読みました。
この本は、憲政史研究者の倉山満 先生がドイツの歴史や日本とドイツの近現代史を分かりやすく解説した本です。
ドイツの歴史や日本とドイツの近現代史について理解を深めることが出来、非常に勉強になりました。
■この本で印象に残ったところは以下のとおりです。
・ドイツ帝国とかかわった明治以来、当時の最先進国だった彼の国の影響を日本はいかほど受けたか。
帝国陸軍はドイツ陸軍を師と仰ぎ、最近まで日本人の医者はカルテをドイツ語で書いていました。
歴史学はドイツの大学をマネして始まり、日本近代史において「欧米」「西洋」と言った場合に、たいていの人はドイツを思い浮かべる憧れの国でした。
それだけに大量のドイツかぶれを生み出し、日本人の舶来コンプレックスの根源となっている国でもあります。(p 6)
・ドイツにはどれほどの不快な思いをさせられたか。
アドルフ・ヒトラーに至っては、我が大日本帝国を地獄の底に叩き落としました。
現在においても何かと中国と仲よくし、嫌がらせをしてくる。
隣国と仲が悪いのは世の常とはいえ、国境を接しているわけでもないのに嫌がらせをするなんて、本当の敵国だ。
そう思う人もいるかもしれません。(p 6)
・これからドイツの歴史をたどっていきますが、最初に大まかに時代ごとの特徴を挙げておきましょう。
古代:移動大好きゲルマン人
中世:分割大好きフランク人
近世:乗っ取り大好きプロイセン人
ついでに、こう続きます。
近代:輸出大好きドイツ人
何を輸出するかといえば、「王様」です。(p 8)
・ドイツがややこしいのは、土地、人、言語の由来がすべてバラバラなことです。(p 9)
・「ドイツ人って誰?」と聞かれた場合、「ドイツ語を話す人々のこと」と答えるのは、ポピュラーな定義です。
国境なんてすぐ変わることに慣れているドイツ人にとって、国籍よりも母語のほうが大事なのです。(p 11)
・ここで整理しましょう。
土地:「ドイツ地方」=今のドイツ連邦共和国とその周辺
人:「ドイツ人」=ゲルマン民族。ヨーロッパをウロウロしていたが、ドイツ地方に定住
言語:「ドイツ語」=ドイツ人が話す言葉
(p 11)
・ヨーロッパ人はローマ帝国を世界帝国の代名詞のように語ることが多いのですが、絶頂期を比べると、大日本帝国の版図のほうが広いことを知っているのでしょうか。(p 17)
・五湖十六国時代の支那大陸南部は王朝が浮かんでは消える状態です。
支那大陸北部から中央ユーラシアにかけては、騎馬民族が暴れまわっていました。
そうした騎馬民族の圧迫に耐えかねて西に移動を始めたのが、フン族です。
フン族が西に移動し黒海を征服すると、ゲルマン民族は耐えかねて西に移動します。
そして、ローマ帝国に少しずつ入り込んでいきます。
これが「ゲルマン民族の大移動」です。(p 18)
・「ユーラシア大陸の玉突き移動」です。
そして、ヨーロッパ人が「世界帝国」と誇るローマ帝国はすでに最弱です。
ゲルマン民族の侵入に、ローマ人はなすすべもありません。(p 18)
・それにしても、かつては(ローカル大名としては)最強だったローマが、なぜここまで弱くなったのでしょうか。
政治は腐敗し、国民はパンとサーカスに明け暮れていました。
自分の国は自分で守るという気概を失い、傭兵という金で雇われた兵隊に国防を任せっきり。
そして、死に瀕したローマの場合はキリスト教の影響が見逃せません。(p 19)
・分割大好きフランク人。
五百年ほど、英雄の登場と分割相続を繰り返します。
国を統一しては、その子供たちに分割相続し、動乱の果てに統一する、を繰り返します。
(p 20)
・800年にカール大帝はローマ教皇から帝冠を授けてもらいました。
ここにフランクの正式名称は西ローマ帝国になります。
しかし、またもや843年のヴェルダン条約で帝国を三分割します。
これが、今のドイツ、フランス、イタリアの原型になります。
ドイツの原型は東フランク王国で、その王は「ドイツ人の王」を名乗るようになります。
(p 22)
・936年、オットー1世は東フランク王(ドイツ人の王)に即位します。
この時、「不可分の王国」を宣言します。
自分の領土の正式名称を「帝国」としたのです。
オットーは武略と政略に秀で、王国の貴族たちを平伏させます。
962年、オットーは西ローマ帝国皇帝を名乗ります。
これをもって後世、神聖ローマ帝国の初代皇帝、オットー大帝と呼ばれるようになります。
ただし、「神聖ローマ帝国」の名が公文書に登場するのは、はるか後の1254年です。(p 22)
・ドイツ史を語るうえで、アドルフ・ヒトラーとナチスのユダヤ人虐殺を避けて通るわけにはいきません。
では、ヨーロッパ人のユダヤ人への態度は、ヒトラーとナチスだけの特異現象なのかというと、歴史的事実を直視すればするほど、そうとは言えないのです。(p 26)
・ユダヤ人の定義は、現代イスラエルの法律によると、「ユダヤ人の母親から生まれた者、あるいはユダヤ教に改宗した者」です。
ユダヤ人はローマ帝国の時代に国を奪われて約2000年間も世界中を流浪し、ユダがキリストを殺したという理由でキリスト教世界では迫害されてきました。(p 26)
・聖書に「汝、心の中でも姦淫するなかれ」との教えがあります。
カトリックの教えでは、心のなかで思い浮かべたということは、実際に行動に移したのと同じことなのです。(p 32)
・イノケンさん以後、二度と東欧が西欧に勝ったことはなく現代に至っているという歴史は、我々日本人も知っておくべきでしょう。
もちろん、それ以前は西欧が負けっぱなしだった歴史とともに。
ただし、当時の世界の中心はヨーロッパではありません。
インノケンティウス三世の名は知らない日本人も、彼の名は知っているでしょう。
チンギス・ハーン。
当時のユーラシア大陸の大半を支配した、モンゴル帝国の建国者です。(p 33)
・神聖ローマ帝国といえば、ハプスブルク家。
ハプスブルク家といえば、ヨーロッパの名門として知られています。
約850年間で400年ほど皇帝の地位を独占したから、ヨーロッパ随一の名門とされます。(p 40)
・同じ1156年、ドイツ地方の南東部にオーストリア公領が創設されます。
といっても、オーストリアをハプスブルク家が治め、歴史の表舞台に登場するのは、ルドルフ一世のときです。(p 40)
・ハプスブルク家もアルブレヒト一世とフリードリヒ美王の二人を輩出しますが、もっとも長い期間帝位を占めたのはルクセンブルク家です。
ハインリヒ七世、カール四世、ヴェンツェル、ヨープスト、ジギスムントの五人を輩出しています。
これだけの期間に神聖ローマ皇帝としてヨーロッパに君臨したというプライドがあるのです。
歴史は国際社会で生き残るための武器であり、ルクセンブルクの場合は「百年の栄光」がまさにそれです。(p 42)
・ちなみに日本国憲法の教科書には「選挙権は人権である」という愚かな言説が書かれているのですが、憲法学者を自称する諸君は選挙権とは何たるかの歴史を知らないのでしょう。
人権とは「人であれば誰でも持っている権利」です。
その反対語は「特権」で、「特定の人だけが持っている権利」です。
選挙権などは、特権中の特権なのです。
日本国憲法第97条は基本的人権を「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」としていますが、では涙ぐましい限りのヨーロッパ人の選挙権獲得のための努力を知っているのか。(p 44)
・アルブレヒト二世が神聖ローマ皇帝として戴冠します。
以後、帝国の崩壊までのほとんどの期間、帝冠はハプスブルク家が独占することになります。(p 46)
・マクシミリアン一世さん、戦争には勝ったり負けたりですが、もっとも得意なのが婚姻でした。
結婚により得たもの、ブルゴーニュ、スペイン、ネーデルランド、ハンガリー、ボヘミアです。
ついでに、スペインとポルトガルは婚姻で同君連合という同じ王様を戴く国になります。
この両国はアメリカ大陸とアフリカ大陸に広大な植民地を持ち、莫大な資産を搾取していますから、ハプスブルク家は一気に「日の沈まない国」になりました。(p 49)
・この時代のドイツでいえば、オーストリアのハプスブルク家やバイエルンのヴィッテルスバッハ家、ザクセンのヴェッティン家の人々はドイツ語を母語とするドイツ民族です。
しかし、彼らに「ドイツ国民」としてのまとまりなどありません。
さらにハプスブルク家は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」の域外にも領土を持っています。
(p 50)
・今でもドイツ北部だけでなく、北欧のデンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランドはルター派の国です。(p 54)
・ちなみに現代の代表的なカルヴァン派の国は、スイス、オランダ、アメリカです。(p 56)
・1555年、アウクスブルクの和議が結ばれます。
「カトリックとルター派はその信仰により暴力を振るわれない」という内容です。
この和議により、「領主の選ぶ宗教がその土地の宗教」という原則が生まれます。
神聖ローマ帝国で言うと、南のオーストリアやバイエルンはカトリック、北のザクセンはルター派という、ある種の棲み分けができました。(p 56)
・ハプスブルク家は婚姻により1477年にブルゴーニュを併合していましたから、フランスの恨みを買っていました。
この一件以降、ハプスブルク家とフランス王家は三百年近く抗争することになります。(p 57)
・帝国諸侯の一つ、ドイツ北西部にあるヴェストファーレン(英語名ウェストファリア)地方の二つの都市、ミュンスターとオスナブリュックで講和会議が開かれました。
六年にわたる会議の間も激しい戦闘は続きますが、ようやく悲惨な三十年戦争は終結します。
313のローマ帝国のキリスト教公認や392年の国教化から数えて千三百年。
ヨーロッパが宗教戦争と決別するときが来ました。(p 74)
・大坂の陣と島原の乱は三十年戦争の形を変えた日本戦線とも言えるのです。
ただし、日本は三十年戦争に巻き込まれはしませんでした。
オランダ寄りの中立です。
より正確に言えば、武装中立です。(p 75)
・1648年、ウェストファリア条約が締結されました。
神聖ローマ帝国内のウェストファリアで講和会議が開かれ、ここで決まったことは現代に至るまで大きな影響を与えていますから、ウェストファリア体制とも呼ばれます。
主な内容は、「アウクスブルクの和議の確認」「カルヴァン派の承認」「帝国諸侯に皇帝と対等の主権を承認」「スイスとオランダの独立の承認」です。(p 80)
・ケンペルは平和な日本のことを羨ましそうに書き残しています。
一つは、徳川綱吉は強い君主だが下の者には慈悲深くみんなから慕われているということ。
もう一つは、タタールの血を引く支那の皇帝はいろんな国を征服したが日本を征服しようと思わないだろう、ということです。
日本は大国・清すら警戒する尚武の気風にあふれた国であるとケンペルは記しています。
(p 83)
・落ち目の神聖ローマ帝国を横目にヨーロッパの中心となったのはフランスです。
リシュリューが三十年戦争と同時並行で始めたスペインとの戦争を、後継の宰相マザランはウェストファリア条約締結後もやめません。
そして1659年、フランス優勢のまま終戦します。(p 83)
・神聖ローマ帝国は西欧でフランス、東欧でトルコと戦っていたのですが、双方で勝利します。
大トルコ戦争では、ハンガリーを奪還しました。(p 85)
・1699年、オスマン帝国とカルロヴィッツ条約を結び、ハンガリーの割譲を認めさせました。
以後、オスマン帝国は凋落し、ヨーロッパがアジアの帝国に優越していく端緒となります。
(p 86)
・中世以降ドイツの本流はハプスブルク家であり、選帝候の地位を占める実力者であるバイエルンとザクセンです。
同じく選帝候の一人がポーランドの東の飛び地のプロイセンを領有し、そしてここに「プロイセン国王」を名乗り神聖ローマ帝国(つまりドイツ地方)の本流に割り込んできたのです。(p 90)
・神聖ローマ帝国で「王」を名乗るのは「ドイツ王」である神聖ローマ皇帝だけです。
そこで、実態はベルリンを首都とする「ブランデンブルク王国」なのですが、ドイツ風の名前を避けてプロイセンの名をつけたのです。
プロイセンは、ここから百七十年かけてドイツを乗っ取っていきます。(p 90)
・イギリス国王はステュアート朝がアン女王で絶えたので、1714年にハノーファー選帝候ゲオルクがイギリス国王ジョージ一世として即位します。
ハノーヴァー朝の始まりです。
二十世紀に世界大戦でドイツと戦争に至ったので、ドイツ風の名前をウィンザー朝と変えて今に至ります。(p 91)
・プロイセンをヨーロッパの大国に押し上げるのは、のちに大王と呼ばれるフリードリヒ二世ですが、その素地は軍人王と呼ばれた父の代からありました。(p 95)
・軍人王はプロイセンを強国にしようと種々の改革を努め、行財政改革に成功します。
単純に言うと、王の威令が国の末端にまで届くようにし、税金を集めて軍隊をつくる財源にし、王自ら訓練して鍛え上げる、ということです。(p 95)
・大王は、故父王に恐怖し、憎悪すらしていました。
しかし、父の悲願であるプロイセンの大国化は息子の代でなされ、息子は父以上にプロイセンの軍国主義化を図りました。(p 98)
・ドイツの法則
一、生真面目
二、勢いに乗る
三、詰めが甘い
(p 100)
・七年戦争での大王の奮闘は、当時のヨーロッパでプロイセンを大国と認知させたのみならず、後世のドイツ人にも影響を与えます。
二十世紀の二つの世界大戦でドイツは三大国を敵に回し、国を消されてしまいます。
しかし、七年戦争で三大国を敵に回して生き残ったフリードリヒ大王の成功体験を追い求めてしまうのです。(p 106)
・啓蒙専制君主時代の特徴は、「教養市民層」と呼ばれることになる読書人口を生み出したことです。(p 108)
・1804年、ナポレオンは自らフランス皇帝に即位しました。
そもそもヨーロッパに皇帝はただ一人。
ローマ帝国の東西分裂以後は原則二人で、十九世紀初頭の段階で東はロシアが、西は神聖ローマ帝国が後継者として引き継いでいました。
(p 114)
・フランツは自分の所領はそのまま、新たにオーストリア帝国を名乗り、初代皇帝フランツ一世になります。
フランツは最後の神聖ローマ皇帝にして、初代オーストリア皇帝なのです。(p 115)
・ナポレオン戦争の講和会議となるウィーン会議が招集されました。
会議を取り仕切るのは、オーストリア外相のクレメンス・フォン・メッテルニヒです。(p 118)
・なぜ、ナポレオンは強かったのか。
原因はいろいろとありますが、革命以降の長い戦争を通じてフランスが国民国家になっていたからです。(p 123)
・1815年の英露仏墺普の五大国体制は、ウィーン体制と呼ばれます。(p 125)
・ドイツから追い出されてしまったときのオーストリア皇帝が、フランツ・ヨーゼフ一世です。(p 131)
・当時の欧州の五大国は、英露仏墺普。
そのなかでオーストリアとドイツはドイツ民族の国です。
三十あまりの諸侯が乱立するドイツ地方が一つの国にまとまれば英露の両超大国はともかく、フランスよりは強い国になります。
では、誰がドイツを統一するか。
カトリックのバイエルンはオーストリアを、プロテスタントのザクセンはプロイセンを推します。(p 132)
・ドイツ統一の盟主にオーストリアがなるべきだというのが大ドイツ主義、オーストリアを排除してプロイセンがなるべきだというのが小ドイツ主義です。(p 132)
・1862年9月23日、オットー・フォン・ビスマルクがプロイセンの首相になります。
ビスマルクはプロイセン主導によるドイツ統一、すなわち小ドイツ主義の実現に邁進します。(p 138)
・ヨーロッパ五大国のどん尻だったプロイセンを、英露両超大国も一目置く地位に押し上げたのはビスマルクです。
それを支えた二人の人物がいます。
一人は、ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ参謀総長です。
モルトケは「訓令戦法」とか「委任戦術」と呼ばれる、現代でも世界中の国が模範にしている軍事組織(システム)を構築しました。(p 139)
・ビスマルクが目的を決め、モルトケは軍事に関して聞かれた場合だけ助言をする。
また、前線指揮官の役割を決め、ビスマルクが決めた目的を達成するために必要な配置をする。
その後は前線指揮官の裁量に任せる。(p 140)
・ちょうど、日本が幕末動乱の最終局面に突入したころ、ヨーロッパはビスマルクが起こした動乱で、世界の果てのアジアのことなどに関心は持てなかったのです。(p 143)
・オーストリアとその徒党は排除する形で北ドイツ連邦を結成し、フランスの介入を完全排除したうえで、オーストリア以外のドイツ諸邦すべてを呑み込んだ帝国を築く。
ビスマルクの深謀遠慮は、ここに結実しました。(p 150)
・1871年元日、ドイツ帝国が建国されます。
そして1月18日、ベルサイユ宮殿鏡の間で、ドイツ皇帝の戴冠式を行います。
事実上の加冠役はバイエルン国王。
ここにドイツ統一戦争は終わり、ビスマルクの悲願は達成されます。(p 150)
・日本人が想像する「ドイツ」は、ここに誕生しました。
神聖ローマ帝国を第一帝国とし、ドイツ帝国を第二帝国と呼ぶ場合があります。(p 151)
・日本人にとって、出会った当初からオーストリアの影が薄かったこともあり、ドイツとはプロイセンとその後継者、つまりビスマルクの国なのです。(p 151)
・ビスマルクとモルトケは日本人にも有名ですが、ドイツ統一戦争のもう一人の立役者ヴィルヘルム・シュティーバーという人物をご存知でしょうか。(p 152)
・表ではモルトケ、裏ではシュティーバーの活躍があり、ビスマルクはドイツ統一戦争に勝利します。(p 153)
・悲願のドイツ帝国の樹立を実現したビスマルクですが、前途は多難です。
普仏戦争の過程でパリを攻略し、和議の条件として係争地のエルザス・ロートリンゲン(アルザス・ロレーヌ)を割譲させました。
屈辱のフランスは復讐に燃えます。
ドイツはそれに備えねばなりません。(p 154)
・ドイツ統一戦争においては七年間で三度の戦争を行ってきましたが、これからは平和の守護者であると宣言したのです。(p 154)
・当時の五大国は、英露独仏墺です。
このなかで、大前提はフランスのドイツへの復讐心です。
それに備えるには軍事力ですが、ビスマルクはオーストリアとの密着を強めます。
独墺の運命共同体化を外交の基軸に据えたのです。(p 154)
・ビスマルクの治世において、ドイツ帝国は統一戦争で世界最強の陸軍を誇り、その後の平和な時期には飛躍的な経済成長を遂げて世界第二位の経済大国となり、大英帝国を脅かす勢いとなりました。(p 161)
・覇権国である大英帝国と挑戦者であるロシアの間のバランサーがドイツでした。(p 161)
・ここに三十年近くドイツと世界を牽引した大政治家、ビスマルクが退場します。
その後、ビスマルクがドイツと世界の表舞台に登場することは、二度とありませんでした。
(p 163)
・露仏同盟の成立で、ドイツの地政学的条件は一気に危険になります。
そこで皇帝ヴィルヘルム二世は、ロシアの目を東方に向けようとします。
そこでエサにされたのが、日本なのです。
ロシアに対して、日清戦争で勝ちすぎた日本から獲物を取り上げようとし、露仏両国を誘ったのです。(p 167)
・当時の五大国は、相変わらず英露独仏墺。
独墺伊三国同盟と露仏同盟が緊張関係にあり、イギリスは光栄ある孤立を気取っています。
ビスマルクの時代はヨーロッパの問題が五大国の関心事でしたが、カイザーが登場するや突如として東アジアが争点となりました。
すべて三国干渉が原因です。(p 168)
・米西戦争の観戦武官だった秋山真之は「英独代理戦争である」と喝破しています。
明治の日本人は目先のことではなく、世界中で起きていることすべてを自分に関係がある事件だと見なして、国策を考えていたのです。
(p 171)
・日英同盟と露仏同盟の4か国すべてが協商で結ばれました。
四国協商です。
気づいてみると、独墺両国は英仏露三国に取り囲まれています。
気づきましたでしょうか。
日本だけが安全地帯のドイツ包囲網が出来上がっていたことに。
日本を餌にしたドイツに、見事に仕返しをしました。(p 180)
・1907年、日英同盟と露仏同盟が結びつき、日本だけ安全地帯のドイツ包囲網が構築されます。
もはやロシアの復讐を気にしなくてよくなりました。
大正ロマンチシズムの薫りはこのころからすでに訪れています。
別名は「平和ボケ」とも言います。
ただ、明治の間は幕末から日露戦争までの動乱を潜り抜けた元老たちがいます。
外交官も優秀でした。(p 186)
・日本が安全地帯で安楽を謳歌している1908年、欧州には火種がくすぶりはじめます。
3月にドイツが艦隊法改正案で、英国との対決姿勢を維持します。
8月にイギリス国王エドワード七世が海軍軍縮を呼びかけてきましたが、ドイツは拒否します。(p 188)
・バルカン半島はヨーロッパの火薬庫と言われますが、小国が火薬庫の上で爆弾を投げあい、爆発しないように大国が抑えているような状態です。
日本以外の世界中が不穏でした。(p 191)
・ジーメンス事件は、山本権兵衛を失脚させようとしたカイザーの陰謀で、それを知った平沼騏一郎検事総長が国益を守るために山本の関与をもみ消した。
その論功行賞で山本が返り咲いたときに司法大臣にしてもらえたという話です。(p 192)
・ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは『職業としての政治』で、「最良の官僚は最悪の政治家である」と述べています。
まさに、カイザー時代の政治を批判しているのです。(p 193)
・当時のベルギーは表向き永世中立国ですが、実態はイギリスの傀儡国家です。
ドイツとフランスの間にあるベルギーは、独仏いずれにも極端に強い力を持たせないように挟んだクッションのような国なのです。
さらに、ブリテン島とベルギーの距離は、対馬とプサンよりも近いのです。
ベルギーが敵対的になれば、即座にイギリスの安全保障の危機です。(p 197)
・8月8日、元老と政府は参戦を決定します。
これを主導した元老は井上馨です。
井上が筆頭元老の山縣有朋と首相の大隈重信に送った書簡は、大戦を「天祐」と断じています。
慧眼です。
実際、大戦を経て日本は名実ともに世界の大国となりましたから。(p 199)
・自らの総力を出すのが総力戦ではありません。
大国が相手の総力を潰すまで戦うから、総力戦なのです。
総力戦とは、近代以前の宗教戦争に逆戻りする思考回路なのだと。(p 203)
・総力戦とは「相手の総力を潰すこと」という認識を持てないから、日本国憲法の押し付けが大日本帝国の総力を潰す総力戦の一環だと理解できないのです。(p 203)
・単独不講和とは、「最後まで一緒に戦う。自分だけ逃げはしない」という意味です。
実際、日本は第一次大戦で最後まで英仏と一緒に戦いました。
これがあったから、戦後に大国として迎え入れられたのです。
もし、あのとき、石井菊次郎なかりせば、です。(p 206)
・石井菊次郎のロンドン宣言加入は、陸奥宗光の下関条約や小村寿太郎のポーツマス条約に優るとも劣らない、日本外交史の金字塔です。
(p 207)
・昭和初期の軍人が負けたドイツを見習うのは、こうした「ルーデンドルフ独裁」をやりたくて仕方がなかったからです。
勝った英仏は政治家が戦争を指導していましたから、陸軍としてはそれをやられては困るのです。(p 208)
・ウィルソンの戦後秩序構想とは、同盟国の利益を失わせ、凶悪な敵を育て、世界中に民族紛争をまき散らすことです。(p 213)
・帝政を廃止したあと、ドイツはヴァイマールという都市で憲法を制定したので、ヴァイマール共和国と呼ばれます。(p 219)
・1919年正月のドイツは、殺しあいで始まりました。
1月5日からスパルタクス団という左翼が武装蜂起し、右翼と街中で殺しあいを始めています。(p 221)
・第一次大戦が終わったとき、英米仏日伊が五大国だとみなされていました。(p 226)
・国際連盟の常任理事国は英仏伊日となります。
のちにドイツも加わります。
国際連盟の実態は「ヨーロッパのもめごと解決クラブ」です。(p 227)
・石井の後任はハーグの国際司法裁判所判事を務めた安達峰一郎。
連盟事務局次長には五千円札の新渡戸稲造。
ほかにも佐藤尚武や松田道一など、外務省は最優秀の人材を国際連盟に送り込みました。
国際連盟のもめごとは大日本帝国が仲裁したからこそ、平和が保たれたのでした。(p 228)
・1921年ワシントン会議で、日本は自分の命綱である日英同盟を切ってしまいました。
ワシントン会議は、アジア太平洋の戦後秩序を話し合うための会議なのですが、この地域の大国である日英米の三国すべてが強い同盟国を持たず孤立するという結果に終わりました。
(p 228)
・問題がないわけではないですが、協調外交を続けていれば、大日本帝国が滅びることはなかったでしょう。(p 230)
・ブリューニングやフーバーも井上も立派な見識を持ち、ほかの面では実行力のある政治家でした。
しかし、ただ一点。
劇的なまでに経済政策をまちがえ、国民の信を失い、失脚していくことになります。(p 237)
・日本はリットン報告書を受け入れていればよかったのです。
極端でもなんでもない話、リットン報告書が連盟で可決されても居座っていればよかったのです。
そうすれば、ヒトラーを抑え込める大国として日本が期待されたのですから。(p 242)
・明治の元老は三国干渉の国難に、西欧と東亜の情勢の双方を見て、生き残りました。
昭和の日本は大国なのに、近視眼的なモノの見方しかできず、世界を敵に回しました。
国家は悪によってではなく、愚かさによって滅びるのです。(p 243)
・明治以来の日本外交の伝統は対英米協調です。
満洲事変は、この対米英協調を打破しようとする動きでした。
日本が英米とケンカをするたびに笑いをかみ殺していたのが、ソ連のスターリンです。(p 244)
・ヒトラーが欧米で嫌われている理由の一つは、もちろんユダヤ人をはじめとした多くの人々への言い訳不能の大量虐殺です。
理由の二は、国際法を露骨に破ったことです。
そして理由の三ですが、これはエスタブリッシュメント特有の感覚だと思うのですが、下品だからです。(p 247)
・最悪時、失業率40%に達していたドイツ経済は、ナチス政権下でみるみる回復し、五年で完全雇用を達成しました。(p 248)
・ちなみに、ヒトラーが残したものでも批判の対象でないものが三つあると言われます。
アウトバーン、フォルクスワーゲン、そして動物愛護です。(p 248)
・10月14日、ヒトラーは国際連盟から脱退を宣言します。
爆発的人気のヒトラーが国際連盟脱退を国民投票にかけたとき、九割のドイツ国民が支持しました。(p 249)
・こうしたヒトラーにイギリスは融和政策で応じます。
イギリスの思惑は、ソ連への盾です。(p 251)
・チェンバレンはチェコスロバキアをヒトラーに売り飛ばすことで、時間を稼ぎました。
次に約束を破られたら、本気で戦争する覚悟で。
ここで止めていたら、ヒトラーは大政治家でしょう。
世界恐慌から脱出し、ベルサイユ体制を打破し、手にした領土はビスマルク以上です。
(p 255)
・なぜドイツ人が世界でもっとも民主的なヴァイマール憲法の手続きに従ってヒトラーを選んだのか。
なぜ、イギリスのネヴィル・チェンバレンはナチス・ドイツに融和政策を採ったのか。
理由は一つです。
共産主義者よりマシだったから、です。(p 257)
・ヨーロッパ戦線ではドイツは米英ソを、アジア太平洋戦線では日本は米英支を敵に回し、大戦争を行うことになります。
1943年までは日独両国ともに健闘しました。
日米のミッドウェー海戦はいまだに世界史上最大の海戦です。
クルスクの戦いはいまだに世界史上最大の陸戦です。
アメリカ海軍もソ連陸軍もよく戦いました。
(p 276)
・その遺言により、カール・デーニッツ海軍元帥が大統領に就任しました。
唯一の仕事は、連合国への無条件降伏の手続きを執り行うことです。(p 282)
・無条件降伏とは、すべてを相手に委ねるということです。
デーニッツの政府は、連合国を構成するソ米英仏の四か国の管理下に置かれることになります。(p 282)
・宗教戦争と決別したウェストファリア体制において、外国と戦争して滅ぼされないことが大国の条件でした。
また、ウェストファリア体制において、宗教戦争期に見られたような相手の総力をつぶしにいくような戦争は、どの国もしませんでした。
それが文明国の条件だったからです。
ただし、相手を文明国と認めない植民地征服戦争においては、相手の総力をつぶしにいきました。
そうして植民地にするからです。
総力をつぶされるということは、文明国の条件を満たしていないとみなされたからです。
ところが二つの世界大戦では、大国でありながら、征服された植民地のごとく総力をつぶされて負ける国が出てきました。
ハプスブルク帝国、ドイツ帝国、第三帝国、大日本帝国です。(p 285)
・第三帝国というのは、ヒトラーが神聖ローマ帝国を第一帝国、ドイツ帝国を第二帝国とし、自分をその後継者と位置づけた名称です。
(p 286)
・西内さんは、戦時中に設置された内閣総力戦研究所の教官でした。
総力戦研究所とは、近衛内閣が軍官民から平均年齢三十三歳の優秀な人材を集め、対米戦のシミュレーションをさせた機関です。
結果、真珠湾攻撃と原爆以外、すべてそのシミュレーションのとおりになりました。(p 288)
・西内さんの言っていることで重要なのは、「総力防衛・総力退却によって、国家・伝統・文化・社会の保持に努める必要がある」です。
まさに我が国は、占領政策によって見事に破壊されました。
西内さんは、祭祀・習俗・法のひとつでも変えられてはならないと強調していますが、日本はすべていいようにやられたと慨嘆しています。
すなわち、神道の否定、家族制度の破壊、日本国憲法の押し付けです。(p 288)
・西ドイツはどのように「総力防衛」を行ったのでしょうか。
西ドイツは、復讐裁判・憲法・教育を重視しました。(p 288)
・復讐裁判・憲法・教育は、まさに南北戦争の北軍が行ったことです。
この面は、日本を占領した連合軍も同じです。
第一に、復讐裁判です。
満洲事変・支那事変・大東亜戦争の指導者を東京裁判と称する一方的なリンチにかけました。
第二に、憲法です。
日本という国自体は残しましたが、日本国憲法制定により徹底的に大日本帝国憲法の価値観を否定しました。
第三に教育です。
東京裁判の歴史認識である「大日本帝国は、侵略や虐殺をした悪い国だった」、日本国憲法の前提である「明治憲法は悪い憲法だった。だから戦前の日本は悪いことをした」という価値観を教育により定着させます。(p 290)
・西ドイツはどうしたでしょうか?
すべてナチスに押し付けて逃げました。
詐術の限りを尽くして。(p 290)
・西ドイツは、自らの手で非ナチス化裁判を行い、基本法を制定しナチスと決別を鮮明にすることで、西側諸国との連帯を示します。
そのことで、「悪いのはすべてヒトラーとナチスであり、自分たちも被害者なのだ」という詐術を用いているのです。(p 292)
・吉田茂はアデナウアーと比較されることが多いのですが、吉田だって日本国憲法や防衛費抑制は暫定的な政策だと考えていました。
しかし、いつかできるだろうと思っていたら後継者に恵まれず、池田勇人まではその精神が伝わっていたけれども、佐藤栄作がぶち壊して今に至るのです。(p 295)
・アデナウアーは朝鮮戦争を、のちに「経済の奇跡」と呼ばれる復興だけでなく、再軍備にも利用しました。
明治の日本人のように、世界の偉大な指導者は地球儀を見て自国の対外政策を決めるものなのです。(p 297)
・インテリジェンスも重視し、ゲーレン機関と呼ばれる陸軍情報部も積極的に活用しました。
西側諸国もゲーレン機関の情報を重宝したので、西ドイツの発言権が高まったのです。
(p 298)
・1954年、占領状態の解消の宣言。
1955年、主権の完全回復、WEU(西欧同盟)とNATOへの加盟。
着々と主権国家としての実をあげていきます。米英仏の軍事同盟国として生きていくことを宣言した代わりに、認めてもらっているのです。(p 298)
・ユダヤ人への補償などナチスの戦争犯罪にも向きあう一方、アデナウアーはソ連とも話し合います。(p 299)
・1956年、西ドイツは連邦軍を発足させ、徴兵制を導入し、憲法裁判所が共産党の結成を禁止しました。(p 300)
・アデナウアーは西ドイツの道筋をつけました。
その道筋とは、「負けたフリをする」です。
(p 301)
・アデナウアーが辞めたあとの西ドイツと統一ドイツの首相の任期です。
アデナウアーを入れて八人です。
同じ時期の我が国は返り咲きも一人と数えると、三十です。
この秘訣を知りたいところです。
それは三つあります。
第一は、首相を辞めさせない仕組みがあります。
第二は、憲法観の合意です。
第三は、政党の近代化です。(p 304)
・西ドイツ及び現在の統一ドイツは、ナチスと共産党を非合法化しています。
極端なことを言う輩を排除した、大多数の普通の人たちだけで政治を行っているのです。
これが基本法で謳う「戦う民主主義」です。
比例代表制ですから単独過半数を得る政党が出現することは稀で、すべての政権が連立政権です。
しかし、首相は保守のキリスト教民主同盟と、リベラルの社会民主党からしか出ていません。
いざとなれば大連立を組みますし、六十回も基本法の改正をしています。
憲法、すなわち国家の運営に関する基本的なことに合意ができているので、足の引っ張り合いにはならないのです。(p 304)
・ドイツの場合は、政党助成金の一定の割合をシンクタンクに使うことを義務付けました。
なぜそんなことが必要かというと、官僚に騙されないように賢くさせるためです。(p 305)
・ドイツでは本当に国会で議論しています。
与党の事前協議もなく、連立与党同士で議論します。
議論が活発になるのは当たり前です。
日本では、実際の議論は与野党の事前協議で行っていますから、国会はセレモニーです。
野党の質問にも、官僚が答弁を用意してくれます。(p 306)
・冷戦最末期、西側諸国は結束してソ連と戦いました。
いずれの国でも長期政権が続きます。
アメリカは、ロナルド・レーガンが八年。
イギリスは、マーガレット・サッチャーが十二年、フランスは、フランソワ・ミッテランが十四年、西ドイツは、ヘルムート・コールが十六年、日本は、中曽根康弘が五年。(p 308)
・西ドイツは、民族の悲願のドイツ統一に向け、必死の外交戦です。
コールは、同盟国の米英仏の同意を取り付けつつ、ゴルバチョフに直談判し、ドイツ統一に向けた外交交渉を続けます。
1990年7月16日、ソ連は統一後のドイツがNATOに残留することを認めました。(p 319)
・10月3日、東西ドイツ統一が実現します。
実態は、西による東の併合です。
コールとゲンシャーは、これを滞りなく行いました。
1991年6月20日、ベルリン遷都が決定します。
名実ともに、ドイツは冷戦の勝利者となりました。(p 320)
・メルケルはドイツ史上初の女性首相。
東ドイツ出身者としても初の首相です。(p 325)
・近代史において、我が国は世界に誇るべき歴史を持っている。
惰眠をむさばる末期清朝や李氏朝鮮を横目に明治維新をやり遂げ、日露戦争に勝ち抜き、世界に冠たる大日本帝国を築いた。
しかし、昭和末期には国策を誤り、負けるはずがないのに負けてしまった。
そして、その後の日本国は地球の地図に、国名ではなく、地名としてのみ残っている。
実は、昨日の末期清朝や李氏朝鮮は、今日の日本そのものなのだ。
なぜ、こうなってしまったのか?
それは、正論が通らない国になってしまったからだ。(p 329)
・正論が通らなくなったとき、国は滅びる。
では、いつになったら日本は正論の通る国になるのだろうか。
それは、日本人が再び賢く、そして強くなったとき以外にないではないか。
まずは賢くなることだ。(p 330)
『嘘だらけの日独近現代史』倉山満、扶桑社新書
■目次
はじめに
第一章 西ローマ帝国
第二章 神聖ローマ帝国
第三章 プロイセン王国
第四章 ドイツ帝国
第五章 ヴァイマール共和国
第六章 ドイツ連邦共和国
おわりに
