東西冷戦 ベルリンの壁
1概要…西ベルリンを囲むベルリンの壁 丸い記号は国境検問所1945年5月8日の第二次世界大戦のドイツの降伏により、ドイツはアメリカ合衆国・イギリス・フランス占領地域に当たり資本主義を名目とした西ドイツと、ソ連占領地域に当たり共産主義を名目とした東ドイツに分断された。ベルリンは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連によって分割占領されたが、アメリカ・イギリス・フランスの占領地域である西ベルリンは、周囲を全て東ドイツに囲まれた「赤い海に浮かぶ自由の島」となったことで、東ドイツ国民の西ベルリンへの逃亡が相次いだ。かかる住民流出に危機感を抱いたソ連共産党とドイツ社会主義統一党(東ドイツ政府)は、住民の流出を防ぐために壁を建設した。壁は両ドイツ国境の直上ではなく、全て東ドイツ領内に建設されていた。同一都市内に壁が建設された都市は、このベルリン以外にはメドラロイトだけであった。冷戦の象徴、そして分断時代のドイツの象徴であったが、1989年11月9日にベルリンの壁の検問所が開放され、翌11月10日に破壊され始め一部が記念碑的に残されている以外には現存しない。建設前、ベルリンの壁の人工衛星画像。黄色の線がベルリンの壁を示している。西ドイツ、東ドイツ、ベルリンの位置関係 中央右上の赤いエリアがベルリン市。ブランデンブルク州に囲まれている。
分割前、時として「ベルリンは東西ドイツの境界線上に位置し、ベルリンの壁はその境界線の一部」と思われがちだが、これは誤解である。そもそも、ベルリンは全域が東ドイツの中に含まれており、西ドイツとは完全に離れていた。そしてベルリン東側は、ドイツ帝国当時からドイツ国時代を経て、冷戦中、即ち1945年5月8日に分割占領されてから1990年10月3日のドイツ再統一まで、引き続き東ドイツの首都となった。つまり、東ドイツに囲まれていたベルリンが、国としてのドイツの東西分断とは別に、さらにベルリンとしても東西に分断されたのである。この時、分断されたベルリンの東側部分(東ベルリン)はそのまま「東ドイツ領」となり、一方西側部分(西ベルリン)は「連合軍管理区域」(≒西ドイツ)として孤立した。これにより西ベルリンは(あたかも西ドイツの飛地であるがごとく)地形的に周りを東ドイツに囲まれる形となってしまった。これは第二次世界大戦後のドイツが連合国(米・英・仏・ソ連)に分割統治されることになった際、連合国はドイツの分割統治とは別にベルリンを分割統治したことに由来する。つまり、ドイツだけでなくベルリンも東(ソ連統治領域)と西(米・英・仏統治領域)に分断した。分割後、分割後まもなく米・英・仏など資本主義陣営(西側諸国)とソ連など共産主義陣営(東側諸国)が対立する冷戦に突入し、1948年6月からベルリンへの生活物資の搬入も遮断された(ベルリン封鎖)。西側諸国は輸送機を総動員し、燃料・食料を始めとする生活物資を空輸し西ベルリン市民を支えたため(空中架橋作戦)、翌1949年5月に封鎖は解除された。なお、ドイツが分断されて東西で別の国家が誕生すると東ベルリンは(東ドイツを統治していた)旧ドイツ民主共和国の首都となったが西ベルリンは地理的に西ドイツと離れていたことから形式上「(西ドイツを統治していた)ドイツ連邦共和国民が暮らす、アメリカ・イギリス・フランス3か国の信託統治領」となり西ドイツ領とはならなかった。
そのためドイツ連邦共和国の航空会社であるルフトハンザの西ベルリンの空港への乗り入れが禁止となるなどの制限はあったが、事実上はドイツ連邦共和国が実効支配する飛び地であった。西ベルリンと西ドイツとの往来は指定されたアウトバーン、直通列車(東ドイツ領内では国境駅以外停まらない回廊列車)と空路により可能であった。東ドイツを横切る際の安全は協定で保証されたが上記のように西ベルリンに入れる航空機はアメリカ・イギリス・フランスのものに限られ、西ドイツのルフトハンザは入れなかった。また、東西ベルリン間は往来が可能で通行可能な道路が数十あったほかUバーンやSバーンなど地下鉄や近郊電車は両方を通って普通に運行されており、1950年代には東に住んで西に出勤する者や西に住んで東に出勤する者が数万人にのぼっていた。東ドイツ・西ベルリン間の道路上の国境検問所はA(アルファ)・B(ブラボー)・C(チャーリー)があり、Cは「チェックポイント・チャーリー」の別名で知られていた。建設へしかし上述の往来の自由さゆえ、毎年数万から数十万人の東ドイツ国民が、ベルリン経由で西ドイツに大量流出した。特に自営農民や技術者の頭脳流出は、東ドイツ経済に打撃を与えた。こうして西側から東ドイツを守るため、東西ベルリンの交通を遮断しベルリンの壁が建設されることになる。実質的には、西ベルリンを封鎖する壁というより東ドイツを外界から遮断する壁といえ、西ベルリンを東ドイツから隔離して囲む形で構築されたのが「ベルリンの壁」である。その名から誤解を招きやすいが、東西ベルリンの国境上だけに壁があったわけではない。
長らく壁建設について、当時のウルブリヒト国家評議会議長が東ドイツ国家の崩壊を恐れて、ソ連のフルシチョフに東西ベルリンの交通遮断を求め、フルシチョフもその強い要請に屈したと思われていたが、ドイツの歴史家マンフレート・ヴィルケが著著「壁の道」の中で1961年8月のウルブリヒト・フルシチョフ会談の記録から、壁建設の決定権はソ連が握っていたことを明らかにした。
ヴィルケによると、ウルブリヒトが東西ベルリン遮断をソ連側に求めていたのは事実であるが、フルシチョフは1961年6月のウィーンでのケネディ米大統領との会談まで待つよう求めた。ケネディとの会談でフルシチョフは、アメリカが東ドイツを国家承認するよう求めたが、アメリカ側は拒否した。その結果、フルシチョフはベルリンの交通遮断を認めたという。ヴィルケによれば「東ドイツはソ連を通じてしか目的を実現できず、国際交渉において発言力は無かった」と指摘し、「ソ連にとってベルリン問題はあくまでも欧州の力関係をソ連優位にするためのテコだった」とし、ベルリンの壁建設はアメリカ軍を撤退させ、西ベルリンの管理権を握るというソ連の外交攻勢からの撤退だったと結論している。
2壁の建設…1963年、西ベルリンを訪問したアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディ
1987年、壁を訪れ演説するアメリカ合衆国のロナルド・レーガン大統領により、1961年8月13日0時、東ドイツ政府は東西ベルリン間68の道すべてを遮断し、有刺鉄線で、最初の「壁」の建設を開始した。6時までに東西間の通行はほとんど不可能になり、有刺鉄線による壁は13時までにほぼ建設が完了した。2日後には石造りの壁の建設が開始された。東ドイツは当時、この壁は西側からの軍事的な攻撃を防ぐためのものであると主張し、対ファシスト防壁とも呼んでいた。これは名目で、実際には東ドイツ国民が西ベルリンを経由して西ドイツへ流出するのを防ぐためのものであり、「封鎖」対象は西ベルリンではなく東ドイツ国民をはじめとした東側陣営に住む人々であった。壁は、後に数度作り変えられ、1975年に完成した最終期のものはコンクリートでできていた。壁の総延長は155kmに達した。
映像などを通じて広く知られている西ベルリンに面した壁に加え、東ドイツ側にもう一枚同様のコンクリート壁があった。すなわち、西ベルリンは二重の壁で囲まれていたのである。その2枚の壁の間は数十メートルの無人地帯となっており、東ドイツ当局の監視のもと壁を越えようとするものがいればすぐに分かるようになっていた。また無人地帯に番犬を放したり、コンクリート壁の上部を蒲鉾型に膨らませて乗り越えにくくしたりという工夫もなされていた。さらに自動車による強行突破に備えて、要所にロードブロックや堀も設けられた。なお一部の無人地帯には電線があったが、これは警報装置への電源・信号ケーブルで、一部で言われたような高圧電流を流した剥き出しの金属線ではなかったとされている。また1970年には仕掛けケーブルに触れると散弾を発射する対人地雷、自動発砲装置(ドイツ語版)(クレイモア地雷と原理において同じ)も設けられたが、被害者に大きな苦痛を与えると非難されたため1984年に撤去された。壁崩壊後2枚の壁が沖縄県宮古島市上野(旧上野村)のテーマパーク「うえのドイツ文化村」に寄贈され、この時に地下を含む構造が明らかになった。地下のL字型の下のコンクリートが東ベルリン側の数倍長いのは、地下から(=塀の下を掘り返して)の逃亡を防ぐためと思われる。1963年6月26日、西ベルリンを訪問したアメリカ大統領ジョン・F・ケネディは有名な「Ich bin ein Berliner」(私はベルリン市民である)の演説を行った。この中でケネディは、「すべての自由な人間は、どこに住んでいようと、ベルリンの市民である」と語り、これはドイツの戦後史での名セリフとしてドイツ国民に長く記憶されることになった。満65歳になって東ドイツ政府に移民申請をすれば、無条件で西ドイツに移住できた。これは当時の東ドイツにおける年金支給開始年齢であり、たとえ移住であれ65歳以上の人口が減れば年金を払う必要がないため政府は歳出をそれだけ削れるという実に都合のいい理由が背景にあった(一種の棄民)。
それ以外に東ドイツ政府に移民申請をして許可が下りれば、他国への合法的移住が可能である。しかし言うまでもなく許可は滅多におりず、65歳まで待つことが出来ないため非合法の亡命という手段をとった者が圧倒的に多い。
壁が破壊されるまでの間、東ベルリンから壁を越えて西ベルリンに行こうとした住民は東ドイツ国境警備隊により逮捕されるか、射殺された。死亡者数は合計192人。ただしさまざまな方法で壁の通過に成功、生きて西ベルリンに到達した東ドイツ国民は5,000人を超える。
東ドイツは逃亡者をなるべく殺害せずに逮捕するようにしていたため、3,000人を超える逮捕者に比べると死亡者の数は少ない。可能な限りの身柄確保を図ったのは、逃亡の背後関係を調べるためであったと考えられている。
ドイツ民主共和国国境警備隊に従事する兵士の中からも、亡命者が続出し、ベルリンの壁建設直後の6週間で85人が逃亡した。1968年時点では、総勢8,000人で、ベルリン市民でなく西ドイツに親類がいない者が、「ベルリンの壁」担当の警備兵となっていた。12時間勤務であり、2人1組で行動することが求められていた。銃撃により逃亡を阻止するばかりでなく、逃亡を試みる者から銃撃されることもあり、勤務中に射殺された警備兵は16人であったが、その半数は逃亡を図った警備兵の犯行であった。 ドイツ再統一後、逃亡者の射殺に関与した国境警備隊員は、被害者遺族からの訴えにより、連邦裁判所によって殺人罪で起訴されて裁判に掛けられたが、大半の被告が執行猶予付の判決を受けたため、現在服役している者はいない。
西ドイツは東ドイツ国民も本来は自国民であるとの考えから政治犯を「買い取って」いたため、東ドイツ国民であれば「壁を越える」という方法を採らなくても「西ドイツに行きたがる政治犯」として東ドイツ当局に逮捕されれば犯罪歴等がない限り、西ドイツに亡命できる可能性はあった。例えば検問所に行き「西に行きたい」と言って当局職員の説得を受け入れず逮捕されるとか、西行きの列車にパスポートなしで乗り込み国境でのパスポート検査で逮捕されるといった方法である。政治犯の一人当たりの買取価格は9万5,847マルク(1977年以降。壁崩壊時のレートで約700万円)で、西ドイツは離散家族も含めて25万人を買い取り、計35億マルクを東ドイツに支払ったという。他にも東欧共産圏への複数回の旅行(許可制)を繰り返して政府を信頼させ西側への旅行許可を得て亡命したものもいるが、富裕層以外には不可能な方法である。また特に若い女性であれば、外国人との結婚により容易に国外への移住が可能であった。
1989年2月6日クリス・ギュフロイの射殺を最後に犠牲者は出なくなった。
3崩壊へ…1989年になると、東ヨーロッパ諸国が相次いで民主化された(東欧革命)。同年5月2日、既に民主化を進めていたハンガリーのネーメト首相がオーストリアとの国境を開放するとハンガリー経由での亡命に希望を持った東ドイツ国民が夏期休暇の名目でハンガリーを訪問した。8月19日、ピクニック事件が発生。欧州議員オットー・フォン・ハプスブルクの支援とネーメトらハンガリー指導部の改革派の後援により、東ドイツ国民がオーストリアへの越境に成功した。このニュースは瞬く間に広まり、西ドイツ・オーストリアと国境を接するハンガリーとチェコ・スロバキアには東ドイツ国民が殺到した。
ハンガリー経由での出国が可能になった以上、もはやベルリンの壁は有名無実化しつつあり東ドイツ国内でもデモが活発化していた。さらには9月11日にはネーメト内閣は正式に東ドイツ国民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させるようになった。こうした国民の大量出国やライプツィヒの月曜デモ等で東ドイツ国内は混乱していたにもかかわらず、最高指導者のエーリッヒ・ホーネッカーは改革には背を向け続けていた。しかし10月7日の東ドイツ建国40周年記念式典にために東ベルリンを訪問したミハイル・ゴルバチョフはその際行われたドイツ社会主義統一党幹部達との会合で自らの進めるペレストロイカについて演説をしたのに対し[6]、ホーネッカーは自国の社会主義の発展を自画自賛するのみであった。ホーネッカーの演説を聞いたゴルバチョフは軽蔑と失笑が入り混じったような薄笑いを浮かべて党幹部達を見渡すと、舌打ちをし、ゴルバチョフが改革を行おうとしないホーネッカーを否定したことが他の党幹部達の目にも明らかになった。これを機にエゴン・クレンツ(政治局員・治安問題担当書記・国家評議会副議長)やギュンター・シャボウスキー(政治局員・社会主義統一党ベルリン地区委員会第一書記)ら党幹部達はホーネッカーの退陣工作に乗り出した。10月17日、政治局会議でシュトフ首相が提議したホーネッカーの書記長解任動議が可決し、ホーネッカーは失脚した。後継者となったクレンツ率いる東ドイツ政府は、1989年11月9日、党の中央委員会で翌日から施行予定の出国規制緩和策を決定した。その日の夕方、クレンツ政権のスポークスマン役を担っていたシャボウスキーは、この規制緩和策の内容をよく把握しないまま定例記者会見で「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表し、いつから発効するのかという記者の質問に「私の認識では『ただちに、遅滞なく』です」と答えてしまった。この発表は、東ドイツ政権内部での事務的な手違いによるものだとされる。
この記者会見を各国メディア及び東ドイツ国営テレビ局などがこれを報道し、同日夜には東ベルリン市民がベルリンの壁の検問所に殺到した。旅行自由化の政令、実際は査証発給要件を大幅に緩和する法律であり越境にはあくまで査証が必要であったが、殺到した市民への対応に困った国境警備隊の現場指揮官は11月9日深夜に独断で検問所を開放した。査証の確認などは実行されず、壁は意味を失った。このことから、ベルリンの壁がなくなった日は東西の行き来が法的に可能になった1989年11月10日ではなく、その前日の1989年11月9日であるとされることが多い。
11月10日に日付が変わると、どこからともなく持ち出された重機などでベルリンの壁は破壊された。のちに東ドイツによって壁はほぼすべてが撤去された。ただし歴史的な意味のある建造物のため、一部は記念碑として残されている。ベルリンの壁崩壊により東西両ドイツの国境は事実上なくなり、東西ドイツの融合を加速した。その後、破壊された壁の破片は土産品として一般に販売されたりもして出回ることになるが壁の原料であるコンクリートには大量のアスベストが含まれており破片の取扱いには注意が要された。流通した中には墓石等を砕いただけの偽物の存在もあったと言う。ほとんど全ての壁は破壊後に塵散りになった。ホーネッカーとブレジネフが接吻して挨拶する有名な写真のモチーフと、東ドイツの国民車トラバント(手前)(ベルリンの壁跡の落書き)ベルリンの壁崩壊とドイツ再統一、更に冷戦の終結し、ベルリンの壁は名実ともにその存在意義を失った。その一方、ベルリンの壁は米ソ冷戦の象徴的遺跡としての保存の声が高まりシュプレー川沿いの約1.3kmの壁(イースト・サイド・ギャラリー(ドイツ語版))は残された。この部分には「ベルリンの壁建設」にインスピレーションを得た24の国の芸術家118人による壁画が描かれた部分であり、その中には「ホーネッカーとブレジネフの熱いキス」を描いた戯画も含まれている。文化財として保存が決まったものの、経年による劣化と観光客の落書きとその場しのぎの上塗りによる補修で保存は危機的状況に陥った。2000年には寄付によって壁の北側は修復され、2008年に残りの補修には250万ユーロの寄付が必要と試算された。2009年には残る部分の修復に着手している。
その他、ベルリン中央部のニーダーキルヒナー通り(ドイツ語版)沿いの一帯(ゲシュタポ本部や国家保安本部があったあたり)には、再統一後に「テロのトポグラフィー(ドイツ語版)」という博物館が建てられ、この部分に沿って建っていたベルリンの壁も残されている。さらに記念品としてライン川畔のコブレンツに白い壁を2枚移設し、また日本には宮古島市上野のうえのドイツ文化村に2枚移設してある。2009年行われた世論調査によると旧西ドイツ出身者が旧東ドイツ復興のため税金が上がったこと、旧東ドイツ出身者たちは旧西ドイツとの所得格差に不満を持ち7人に1人はベルリンの壁の復活を望んでいるという結果が出た。
4ドイツ連邦共和国建国・刑事裁判
ベルリンの壁での射殺命令およびその実行に関して、現場の兵士および国境警備隊幹部そして東ドイツ首脳そして最高指導者に対して、1990年10月ドイツ再統一後のドイツ連邦共和国の裁判所で裁判が行われた。射殺したとされる兵士については、「的を外して撃った」との主張がなされることもある。射殺命令を実行したと認定された兵士に対しても、最終的には、執行猶予付きの判決が確定している場合がほとんどである。「殺意なき殺人」として処理されている。1962年8月17日に射殺されたペーター・フェヒターの事件で、1997年3月に実行者の兵士、ロルフ・フリードリッヒに20か月、エーリッヒ・シュライバーに21か月、それぞれ、執行猶予のついた懲役の判決が下る。1989年2月6日に射殺されたクリス・ギュフロイの事件で、実行者の兵士の1人のインゴ・ハインリッヒが起訴され、3年半の懲役の判決が下りるものの、1994年に執行猶予付きの2年の懲役が確定している。1991年、内務大臣、国防大臣、閣僚評議会議長(首相) 国家評議会議長などを歴任したヴィリー・シュトフが、ベルリンの壁関連の殺人罪で逮捕されるが、翌年8月に健康上の理由で釈放され、最終的に審理停止となる。1993年、射殺命令の責任者ということで、国家保安大臣だったエーリッヒ・ミールケが起訴される。別件の警官殺害の件で懲役6年の刑が下るものの、1995年に釈放され、2000年に死去する。ベルリンの壁崩壊で、スポークスマンとして登場した当時政治局員で社会主義統一党ベルリン地区委員会第一書記(ベルリン支部長)だったギュンター・シャボウスキーにも、ベルリンの壁関連で3人の殺害の件で、1997年8月に懲役3年半の刑が下る。シャボウスキーが無実の人間が殺害されたことに対して責任を認めたことが考慮され収監期間1年ほどで釈放された。1993年、ホーネッカーの刑事裁判が免除された。翌年、ホーネッカーは逃亡先のチリで没した。1976年より1989年10月まで東ドイツの最高指導者であり、ベルリンの壁建設当時からの最高責任者といわれたホーネッカーの刑事責任が、事実上追及できないこととなった。1999年、クレンツに懲役6年半の判決が確定された。党幹部としての責任(クレンツは治安問題担当書記を兼務していた)が問われているが、ベルリンの壁犠牲者に遺憾の意は表している。シュパンダウ刑務所での4年間のみの収監であり、昼間は刑務所外で働くことができるという半自由刑の扱いとなった。東ドイツは社会主義国の中では最も経済発展を遂げ「社会主義の優等生」と呼ばれたが、1970年代後半の第二次石油危機以降西側諸国が経済構造の転換を進めたのに対して、計画経済党官僚の支配の下で硬直化した東側陣営では経済の構造改革が出来なかった。1980年代には東ドイツ経済も世界屈指の経済大国となった西ドイツには大きく水を開けられ、抑圧的な政治体制もあって東ドイツ国民は不満を募らせるようになっていった。一方、ドイツ社会主義統一党(SED)のエーリッヒ・ホーネッカー書記長(国家評議会議長兼務)は、ハンガリー人民共和国やポーランド人民共和国で社会変革の動きが強まってからも、秘密警察である国家保安省(シュタージ)を動員して国民の束縛と統制を強めていた。他の東欧の社会主義国と違って、分断国家である東ドイツでは「社会主義のイデオロギー」だけが国家の拠って立つアイデンティティであり、政治の民主化や市場経済の導入といった改革によって西ドイツとの差異を無くすことは、国家の存在理由の消滅、ひいては国家の消滅を意味することを東ドイツ首脳部は知っており、東欧に押し寄せる改革の波に抗い続けていたのである。
1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任して「ペレストロイカ」政策を推進して以来、ソビエト連邦内のみならずその影響圏である東欧諸国でも民主化を求める声が高まり、他の東欧諸国や東ドイツ国内でも民主化推進の声が高まっていた。しかし、ホーネッカーら東ドイツ首脳部は強硬姿勢を崩さず、1988年にはペレストロイカを伝えるソ連の雑誌『スプートニク』を発禁処分とした。これは知識人の不満を一気に高めることになった。1987年にアメリカ大統領ロナルド・レーガンがベルリンを訪問した際、ベルリンの壁の前で演説し、「Mr. Gorbachev, tear down this wall.(ゴルバチョフさん、この壁を壊しなさい)」と演説で訴え、2年後の壁崩壊に影響を与えた要因の一つとされている。1989年5月2日、既に改革派が民主化を進めていたハンガリーでネーメト・ミクローシュ内閣がオーストリアとの国境線の鉄条網撤去に着手し、鉄のカーテンが綻び始めた。6月18日にはポーランド人民共和国で複数政党制による自由選挙が実施され、他の東欧諸国に先んじて民主化を果たした。夏になると多くの東ドイツ市民はハンガリー、オーストリア経由で西ドイツへの亡命が出来ると考え、夏の休暇を利用してハンガリーに出国した。この時、東ドイツ首脳部は最高指導者のホーネッカーが急性胆のう炎で療養生活に入っていたために指導者不在の状態になっており、何も手を打つことが出来ない状態であった[4]。治安問題担当の書記で政権ナンバー2と目されていたエゴン・クレンツ(党政治局員・国家評議会副議長兼務)は8月11日に一時復帰したホーネッカーに対し、出国者数を報告し、国民の大量出国問題を党の政治局で討議するよう進言したがホーネッカーは、それでどうするつもりかね。なんのために出国者の統計など出すのか。それがどうした。壁を築く前に逃げた連中ははるかに多かったよ。と言ってクレンツの進言を意に介さなかった。クレンツは長期休暇を命じられて10月1日まで政権中枢から遠ざけられた。ホーネッカーは療養生活に戻ると、保守派のギュンター・ミッターク書記以外は政治局員でさえも近付けなかった。8月19日、ハンガリーで「汎ヨーロッパ・ピクニック」が成功すると、ベルリンの壁が持つ意義は相対的に低くなり、東ドイツ国民はハンガリーやチェコスロバキアに殺到し、プラハやブダペストの西ドイツ大使館にも溢れかえるようになった。ハンガリーのホルン・ジュラ外相は東ドイツ政府に対してハンガリー国内にいる東独国民を処罰しないことと、西ドイツへの移住許可に前向きに対応するよう迫ったが、東ドイツ政府は何の反応も示さなかった。9月になっても東ドイツ国民の出国は止まらなかった。9月10日には、ハンガリーのネーメト内閣が国境の全面開放を決定し、11日午前0時をもって東ドイツとの協定(当時の欧州の東側諸国は査証免除協定を結ぶと同時に、相手国の国民が自国経由で西側に逃亡するのを防ぐ相互義務を負う協定を結んでいた)を破棄して国境を開放し、国内にいる東ドイツ国民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させた。翌日のSED政治局会議では出席者はハンガリーの対応を非難したが、ホーネッカーがまだ療養中で不在だったために結局何の対策も取られず、ハンガリーに対して何も報復することも出来なかった。既に政治局員の間でも市民の流出が続いて東ドイツの存立が危うくなってきていると認識はされるようになっていたが、結局それが討議されることも無かった。そうしている間にも、東ドイツ国内では医師、電車やバスの運転手、高等教育を受けた若い労働者などが次々に出国し、東ドイツのあちこちで交通機関の運休や医療の崩壊、工場の閉鎖などの社会的混乱が起きていた。こうした中、イギリス首相マーガレット・サッチャーはミハイル・ゴルバチョフ書記長に、ソビエトのリーダーとしてベルリンの壁崩壊を阻止するために出来得る限りのことをするよう要請し、次のように語った。
我々は統一ドイツを望まない。これは戦後の国境を変えることになってしまうことでしょう。我々は世界情勢の安定を傷つけ、我々の安全の脅威となるような発展を認めることはできない。9月26日、療養生活から復帰したホーネッカーは政治局会議を開催したが、10月7日に予定される建国40周年記念式典の準備を指示しただけで、出国者問題には触れなかった。9月30日にはプラハの西ドイツ大使館に残っていた東ドイツ国民の西ドイツへの出国が許可されたが、これも式典前に目障りな問題を処理してしまおうというだけのことであった。プラハから東ドイツ市民を乗せた列車がドレスデン中央駅に到着した際には、それに乗ろうとするドレスデン市民と人民警察の間で衝突が発生した。10月3日、東ドイツ政府はチェコスロバキアとの国境を閉鎖した。これによって、東ドイツ国民がチェコスロバキア、ハンガリー、オーストリア経由で出国することは不可能になった。逃げることが出来なくなった東ドイツ国民は不満を体制批判に転化させるようになりライプツィヒを拠点にデモ(月曜デモ)が激化していくことになった。
5ホーネッカーの失脚…東ドイツ建国40周年式典に出席したホーネッカーやゴルバチョフら東側諸国の首脳陣(1989年10月7日)建国40周年記念の、自由ドイツ青年団によるパレードでの反政府デモ(1989年11月4日)ホーネッカーにとって最後の頼みの綱は、ソビエト連邦政府からの支持を得ることであったが、10月7日の東ドイツ建国40周年式典を訪問したソ連共産党のゴルバチョフ書記長は、 軍事パレードの後にシェーンハウゼン城(ドイツ語版)(東ドイツ政府の迎賓館として使用されていた)で行われたソ連・東ドイツ両国の党幹部の会合で演説し、自国のペレストロイカの現状を報告した後、「遅れて来る者は人生に罰せられる」とホーネッカーに対する批判とも取れる言葉を述べた。これに対して演説を行ったホーネッカーは、自国の社会主義の発展をまくしたてるのみであった。ホーネッカーの演説を聞いたゴルバチョフは軽蔑と失笑が入り混じったような薄笑いを浮かべて一堂を見渡すと、舌打ちをした[16]。ゴルバチョフがホーネッカーを支持していないのは東ドイツの他の党幹部達の目にも明らかだった。ゴルバチョフは人民議会での演説でも先に発表した新ベオグラード宣言の内容を繰り返し、各国の自主路線を容認する発言をしたのみで東ドイツ政府の支持には言及しなかった。また前日の6日夜に行われたパレードでは、動員されたドイツ社会主義統一党の下部組織・自由ドイツ青年団(FDJ)の団員らが突如として、ホーネッカーら東側指導者の閲覧席に向かって「ゴルビー! 私たちを助けて」とシュプレヒコールを挙げるハプニングがあった[17]。これを見たポーランド統一労働者党のミェチスワフ・ラコフスキ(英語版)第一書記はゴルバチョフに若者たちの話している内容が理解できるか尋ねたところ、ゴルバチョフはドイツ語は良くは知らないが、分かるような気がすると答えた。ラコフスキは「『ゴルバチョフ、我々を助けて』と懇願しているのですよ」と答えた後、次のようにゴルバチョフに教えた。「これらの若者は、党活動家の最良の部分とされているのです。これで、おしまいですよ」。7日夜に共和国宮殿で行われた晩餐会の席でもゴルバチョフは、東ドイツを賛美し自画自賛するホーネッカーの乾杯の挨拶を聴きながらそのすぐ脇で手厳しく批判の言葉を述べていたという。ホーネッカーが自画自賛しているその時、共和国宮殿の周りではデモ隊が抗議集会を行っていた。ゴルバチョフは晩餐会が終わるとそのまま空港へ直行し、そそくさと帰国してしまった。クレンツによれば、この時ゴルバチョフは周囲に居たSEDの党幹部達に「行動したまえ」と、暗にホーネッカーを退陣させるよう囁いたという。こうしてゴルバチョフに見捨てられ、忠実なはずの党の青年組織からも公の場で反目されたホーネッカーは、ドイツ社会主義統一党内での求心力も急速に失われ、党内のホーネッカー下ろしに弾みが付けられた形となった。10月9日にはライプツィヒの月曜デモは7万人に膨れ上がり、市民が「我々が人民だ(ドイツ語版)」と政治改革を求める大規模なものとなった。ホーネッカーは警察力を使って鎮圧しようとしたがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団指揮者のクルト・マズアらの反対に遭い、また在独ソ連軍が動かないことが判明して失敗に終わった。こうして東ドイツ国内外での混乱が拡大すると、危機感を募らせたクレンツやギュンター・シャボウスキーらは、(政治局員、党ベルリン地区委員会第一書記)まず10月10日から11日にかけて行われた政治局会議でホーネッカーに迫って、今までの政治体制の誤りを事実上認める政治局声明を出させた(社会主義統一党の機関紙『ノイエス・ドイチュラント』には12日に掲載された)。今までの自分の政治を否定される格好になったホーネッカーは、12日に中央委員会書記、全国の党地区委員会第一書記を集めた会議を招集し、自身への支持を取り付けて巻き返そうとした。しかし、ドレスデンでの混乱に直面したハンス・モドロウ(ドレスデン地区委第一書記)ら各地区の第一書記からホーネッカー批判の声が上がり、全くの逆効果に終わった。勢いづいたクレンツ、シャボウスキーらは首相のヴィリー・シュトフやソ連の指導部らとも連絡を取り、密かにホーネッカーの追い落としを画策した。10月16日、ホーネッカーは再び月曜デモに対して武力鎮圧を主張したが、国家人民軍(東ドイツ軍)参謀総長のフリッツ・シュトレーレッツ大将(SED政治局員)は「軍は何もできません。すべて平和的に進行させましょう」と言ってホーネッカーの命令を拒否した。もはや軍も、ホーネッカーには従わなくなっていた。10月17日、政治局会議でいつものように議事を進行し始めたホーネッカーに対し、突如シュトフ首相がホーネッカーの解任を提案した。ホーネッカーの書記長解任にはホーネッカー以外の政治局員全員が賛成を表明し、ホーネッカーは自らの解任動議を可決せざるを得なかった[26]。10月18日にホーネッカーは正式に退陣し、クレンツが後任となった。
しかし、元々クレンツはホーネッカーの子飼いの部下であり、国民はおろか社会主義統一党の党員達からでさえ信頼されていなかった[27]。クレンツは一党独裁制の枠の中で緩やかな改革を行おうとしたが、国民の反発は強く、11月4日には首都の東ベルリンでも百万人以上が言論・集会の自由を求める大規模なデモが起こり、東ドイツ政府は根底から揺さぶられる事になった。もはや混乱は収拾が付かない状態に陥っており、クレンツも十分に状況を把握出来なくなっていた。「旅行許可に関する出国規制緩和」の発表「旅行許可に関する出国規制緩和」を発表するシャボウスキー1989年11月6日、東ドイツ政府は新しい旅行法案を発表した。しかし、この法案では出国の際には相変らず国の許可を要する等様々な留保条件が付けられていたため、既にそれまでのように党の決定に対して従順では無くなっていた人民議会によって否決された。議会の否決を受けてクレンツらは新たに暫定規則(政令)で対処することにした。11月8日から開かれた党の中央委員会で政治局員はいったん全員が辞任した。その上で、首相のヴィリー・シュトフらの引退と改革派のハンス・モドロウらの政治局入りが決定し、モドロウを後継の首相に任命することが決まった。この後ようやくクレンツは世論に押される形で党と政府の分離、政治の民主化、集会・結社の自由化、市場原理の導入などの改革を表明した。この日から行われた中央委員会は混乱していた。出席者からは工場で怒った労働者が党に反抗し始めていることが報告され、さらに経済学者ゲアハルト・シューラー(ドイツ語版)国家計画委員長によって東ドイツの財政が莫大な対外債務を抱えて破綻寸前になっていることが報告された。これまで東ドイツが社会主義国では一番の工業力・経済力を持っていると信じていた党員達は当惑と失望、ホーネッカーらに対する怒りの感情を抱いた。これらの問題や、各地で起きているデモへの対応などを巡って中央委員会の出席者たちはお互いを非難し、罵り合うような状態であった。1989年11月9日の午後3時過ぎに、クレンツは中央委員会で前日から続く非難の応酬戦を中断し[32]、「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令案を読み上げた。この提案は「暫定的」の文言を削除したうえで、中央委員会の承認を受けた。当時、社会主義統一党のスポークスマン的な役割を担っていたシャボウスキー[35]は、18時からの記者会見のために会議の途中で退席した。その際シャボウスキーはクレンツからA4版2枚の書類を渡され、「こいつを発表しろよ。こいつは大当たりするぞ」と言われたという[36]。
シャボウスキーは記者会見が始まって1時間ほどたった頃、内容をよく把握しないまま国民の大量出国問題に対し「我々はもう少々手を打った。ご承知のことと思う。なに、ご存じない?これは失礼。では申し上げよう」[37]と言うとクレンツから渡された報道発表用の書類を取り出し、「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表した。この案は中央委員会の承認は受けていたが、未だ閣僚評議会(内閣)の閣議では決定されておらず正式な政令にはなっていなかったのだが、シャボウスキーは閣議決定されているものと錯誤していた。
この記者会見場で記者が「(この政令は)いつから発効されるのか」と質問したところ、上記の通り翌日の11月10日の朝に発表することが決められていたにも拘らずそれを伝えられていなかった(シャボウスキーに渡された文書は10日に報道発表するための文書だったため、上記の政令案と違って発効期日は書かれていなかった)ため、シャボウスキーは「私の認識では『直ちに、遅滞なく』ということです(Das tritt nach meiner Kenntnis… ist das sofort, unverzüglich.)」と答えてしまった[40][41][42][43]。この発言を受けほどなく国境ゲートで、通過しようとする市民と指令を受け取っていない国境警備隊との間で当該指令の実施を巡ったトラブルが起きる。マスコミによって「旅行が自由化される」の部分だけが強調されたことも混乱に拍車を掛ける(なお、シャボウスキーの発言の後、政令は正式に閣議決定され、東ドイツ国営通信が政府報道官の発表として伝えている)。チェックポイント・チャーリーから西ベルリンに入る東ベルリン市民(1989年11月10日)
東西ベルリンの検問所に詰めかけた東ベルリン市民(1989年11月10日)東西ベルリンの検問所を越えるトラバントと歓迎する西ベルリン市民(1989年11月14日)この記者会見の模様は、夕方のニュース番組において生放送されていたが、これを見ていた東西両ベルリン市民は(東西ベルリンでは放送が相互にスピルオーバーするため、東西市民は互いのテレビ番組を視聴することが可能であった)半信半疑で壁周辺に集まりだした。一方、国境警備隊は指令を受け取っておらず、報道も見ていなかったため対応できず、市内数カ所のゲート付近では波乱が起き始めた。この時、ベルリン北部のボルンホルマー通りにある検問所の司令官は、後に「ベルリンの壁を開放した男」と呼ばれることになるハラルト・イエーガー(ドイツ語版)中佐であった。シュタージにも所属していたイエーガーは、シャボウスキーによる自由往来の発表を耳にして仰天した。イエーガーはシャボウスキーの記者会見が始まった18時頃に上官から警備を引き継いでいたが、その1時間ほど後のシャボウスキーの発言と共に検問所に続々と民衆が集まって来た[46]。イエーガーは「シャボウスキーが言ったのだから」と詰め寄る群衆[47]に規則ではビザとパスポートが要るのだから出直すよう言ったが、群衆は「ゲートを開けろ、ゲートを開けろ、壁を撤去しろ」と叫びだした。ボルンホルマー通りの検問所には、「より攻撃的な」連中を捜し、その姓名を控えた上でパスポートの写真の上に特別なスタンプを押して通過させろという命令が下された。このスタンプを押すことは東ドイツの市民権を剥奪し、帰国不可にすることを意味していた[48]。21時20分頃イエーガー中佐は、この方法で250-300人を通過させたが、さらにその背後には数千人の殺気立った群衆がゲートを圧迫していた。一方、ベルリン市の中央部にあるチャーリー検問所は地下鉄の駅に近いため群衆が続々と集まっていた[50]。膨れ上がった群衆に、さして多くはない国境警備隊は太刀打ちできなかった。チャーリー検問所の司令官メル大佐は何度も司令部に電話したが、現場に居ない上官は待機命令を出すだけ[50]で、責任逃れに終始したため責任を押しつけられた現場の警備隊は板挟みに陥り、対応に困り果てた。また、同じ1989年6月4日の天安門事件の影響もあり、武力制圧という手段はまず不可能で、事態収拾の策は尽きていた。党本部の書記長執務室にいたクレンツは、市内に6か所ある検問所すべてが群衆に囲まれているという報告を受けた。クレンツはこの群衆を押しとどめるのはもはや無理であると感じていた[51]。
11月9日22時30分頃、ボルンホルマー通りの検問所には2万を超える群衆が詰めかけていた。イエーガー中佐は何度も上官に指令を仰いだが「待て」と言われるばかりであった。興奮状態下での市民の暴走や圧死による群集事故の発生を恐れたイエーガー中佐は上官に「これ以上検問所を維持することは出来ない」と伝え、独断で部下にゲートを上げさせると、群衆に手を振って通過を促した[52]。こうして、ついに東西ベルリンの国境は開放されることになった。一時間後にはチャーリー検問所でも、メル大佐が同じ決断を下し、独断でゲートを開かせた[53]。夜半までに全検問所が開放され、国境警備隊には撤収命令が下された。
本来の政令はあくまでも「旅行許可の規制緩和」がその内容であって東ベルリンから西ベルリンに行くには正規の許可証が必要であった。東ドイツ国営テレビは繰り返し「旅行には申請が必要です」と放送していたが、それを顧みる者はいなかった。混乱の中で許可証の所持は確認されることがなかったため許可証を持たない東ドイツ市民は歓喜の中、大量に西ベルリンに雪崩れ込んだ。西ベルリンの市民も騒ぎを聞いて歴史的瞬間を見ようとゲート付近に集まっており、抱き合ったり一緒に踊ったりあり合わせの紙吹雪をまき散らすなど東ベルリン群衆を西ベルリン群衆が歓迎する様子が各所でみられた。この大騒ぎはそれから三日三晩続いた。
クレーンによって撤去されるベルリンの壁(1989年12月21日)。
数時間後の11月10日未明になると、どこからともなくハンマーやつるはし、建設機械が持ち出され、「ベルリン市民」はそれらで壁の破壊作業を始めた。壁は東側によって建設された東側の所有物であるが、東側から壁を壊していい旨の許可は一切出されていない。しかし数日後からは東側によって正式に壁の撤去が始まり、東西通行の自由の便宜が計られるようになった。こうして1961年8月13日に建設が始まった「ベルリンの壁」は、建設開始から28年後の1989年11月10日、ついに破壊された。ベルリンの壁は、「冷戦」「越えられない物」「変えられない物」の象徴だった。これは西ドイツ国民も誰も予想しておらず、事件当時、西ドイツ首相のヘルムート・コールは外遊先のポーランドに滞在中であったが、このベルリンの壁開放のニュースに接し、急遽ワルシャワからベルリンへ向かった。
東西ベルリンの境界だけでなく、東ドイツと西ドイツの国境も開放された。ポルシェ、BMW、メルセデス・ベンツを自国に擁する西ドイツ市民から見ると、酷く時代遅れな東ドイツ製の小型車「トラバント」に乗った東ドイツ市民が相次いで国境を越え西ドイツに入ってきた。西ドイツ国民は国境のゲート付近で彼らを拍手と歓声で迎え、中には彼ら一人一人に花束をプレゼントする者まで現れた。こうした国境線にも越境を阻止する有刺鉄線などが張られていたが、これらも壁と同じく撤去された。東ドイツ国民が乗っていたトラバントは、それから暫く東西ドイツ融合の象徴として扱われた。1990年1月8日のライプツィヒ月曜デモ。「我々は一つの新しいドイツを求める」「我々は一つの民族だ」といったプラカードや、西ドイツの国章が入った旗が掲げられている。
11月13日、ハンス・モドロウ内閣が発足した。モドロウは政治・経済の改革を表明し、23日には社会主義統一党がホーネッカーの不正調査の開始、在野勢力への円卓会議開催の呼びかけ、憲法第1条に定められている「党による国家の指導」条項の削除を表明し、一党独裁制を放棄した(12月1日に憲法改正) [58]。
12月3日、社会主義統一党は緊急中央委員会総会を開催し、クレンツ以下政治局員・中央委員は自己批判の声明を採択して全員辞任し、ホーネッカー、シュトフ、エーリッヒ・ミールケ(前国家保安相)らは党を除名された。クレンツは6日に国家評議会議長も辞任し、わずか2か月足らずでクレンツ政権は終わった。12月8-9日に開かれた社会主義統一党の党大会は、党名を社会主義統一・民主社会党(SED-PDS)に改名し、1990年1月にはクレンツやシャボウスキーも党から追放された[59]。
こうして社会主義統一党の一党独裁制は崩壊し、モドロウは政治・経済の改革を表明すると同時に早急な東西ドイツ統一を否定し、条約共同体による国家連合を提唱した[60]。しかし、壁の崩壊後1日約2,000人の東ドイツ国民が西へ流出し、東ドイツマルクの価値は10分の1に暴落し、元々疲弊していた東ドイツ経済は崩壊していった[60]。12月、モドロウはコールに対し150億ドイツマルクの支援を要請したが、コールはこれを拒否した[61]。また、知識人たちは「民主的な社会主義国家」としての存続を模索していたが、民主化の過程で明るみになったホーネッカーら社会主義統一党の旧幹部達の不正や贅沢行為に一般労働者たちは怒り、社会主義そのものに対して否定的になっていった。軍や警察の機能は停止し[63]、国民を抑圧していた国家保安省の出先機関が群衆に襲撃されるようになっても、東ドイツ政府は何の手を打つことも出来なかった1990年初頭には市民の70%が東ドイツ国家の存続を望んでいた[63]が、ライプツィヒの月曜デモでは「我々は一つの民族だ(ドイツ語版)(Wir sind ein Volk)」と言う声が挙がるようになり、2月になると東ドイツが自力ではもう長く存続出来ないと認識されるようになった[64]。結局、東ドイツの旧政権幹部たちが恐れていたように、「社会主義のイデオロギー」が崩壊した東ドイツは国家として存続できなくなり、崩壊していったのである。東西ドイツ統一式典(1990年10月3日)ベルリンの壁崩壊に対して、ソビエト連邦アメリカ合衆国、東ヨーロッパなどから祝辞を送られ、次の政治目標には、1945年5月8日のドイツ分断以降、ドイツ人にとっては悲願である東西ドイツ統一が設定されその気運が高まった。フランス大統領フランソワ・ミッテランは、ベルリンの壁崩壊に反対していたイギリス首相マーガレット・サッチャーに、統一ドイツはアドルフ・ヒトラーよりも広大な領土を手に入れるであろう、そしてその結果にヨーロッパは耐えなければならないことになると語った。ソビエト連邦の最高指導者であったゴルバチョフは、東西ドイツ統一には時間がかかると想定していた上に、東ドイツが北大西洋条約機構(NATO)に参加することを恐れていた。アメリカ合衆国の大統領であったジョージ・H・W・ブッシュ(父ブッシュ)も、統一がそれほど早い時期に実現するとは考えていなかった。西ドイツ首相のコールですら、早急な統一には無理が生じると考えていた。東ドイツのモドロウ政権は円卓会議を開き、自由選挙の実施、新国家のための新憲法草案の作成まで決定していた。しかしながら1990年3月、東ドイツにおいて最初で最後となる自由選挙が行われ、西ドイツのコール首相が肩入れした速やかに東西統一を求めるキリスト教民主同盟を中心とした勢力が勝利すると、それまでの社会主義統一党政権が主張していた東西の対等な合併ではなく、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が東ドイツ(ドイツ民主共和国)を編入する方式(東ドイツの5州を復活し、それを自発的にドイツ連邦共和国に加入させる)で統一が果たされることに決定した。こうして東西ドイツの統一は、アメリカ、ソ連、そして西ドイツ首脳が考えていたよりもはるかに速いスピードで進められた。この驚異的なスピードで進んだドイツ再統一の原動力は、ベルリンの壁が崩壊した事によって生み出された「歓喜」と「感動」、そして東ドイツの国家としての崩壊であった。結局、ベルリンの壁崩壊から満1年も経たない1990年10月3日、悲願の東西ドイツの統一が実現した。10月3日の統一式典では、ベルリンの旧帝国議会議事堂に「黒・紅・金の三色旗」が揚げられ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」が演奏された。
しかし、この「感動」と「歓喜」の情熱の渦はコールが想定したとおりの弊害をもたらした。東ドイツでは1989年11月10日以後、自分達は2つに分裂したうちの片方である「東ドイツ国民」ではなく統一された「ドイツ国民」であるという意識が大きくなっていった。これが早急なドイツ統一を支持する背景となった。統一後の経済的な不安が想定されて然るべきであるが、壁の崩壊直後に西ドイツ政府が西ドイツを訪問する東ドイツ市民に対して渡した一時金はこの不安をかき消