対立するのは性に対する立ち位置か | 3年前のしこうの楽しみ

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神仏統合という発想が出てからの展開です。
これはほぼ同時のことでした。
そこに相容れない要素を改めて認識したのです。
 

言語化してしまえば代わり映えのないものかもしれません。
いうならば単なる再確認です。
ただその溝の深さを実感したのでした。
 

当然ながらそれはすでに触れた生に対する立ち位置の違いと似たようなものです。
具体的には性という概念に意識がスライドしました。
生が身であるなら性は心でしょう。
 

まさに心を生かすとか心が生きるというイメージです。
性質や性格はその人の心が生きていく場という感じでしょうか。
ちなみに性別は単に性を分けるものということになります。
 

ここには心が生かされる場が別れているというニュアンスがあるのかもしれません。
ホルモンの働きからしてもある程度それはあるでしょう。
身体レベルにおける違いがそれを生じさせるわけです。
 

どうであれ生と性に相互作用があるわけです。
この観点でいけば神道も仏教もそこまでの違いは出ないのかもしれません。
不明瞭で分かりにくいグレーなままとも言えます
 

ただこれは異なるものを整理せずにそのまま存在させる日本文化の性質かもしれません。
決定的なのはそれを肉体的にとらえた時の問題です。
つまり性別もしかりですがさらに性的なレベルになると様相が違ってくるのです。
 

あからさまな表現はないでしょうがおそらく神道は性に肯定的と推測します。
古事記の描写にもこれは表れていると思われます。
もちろん解釈次第ではありますが多義性の中にその意味合いが含まれる感覚です。
 

一方で仏教は真逆かもしれません。
妻帯を禁じた背景にそれがあるように感じます。
実際に性は生につながって肉体を強化していくことになるでしょう
 

少なくとも物質的身体の活動性を抑えて修行の成果を高めるのとは逆ベクトルです。
欲を絶つことを善とする気風もありそうです。
確かに聖人の雰囲気です。
 

ここについて個人的にはあまりフォーカスしたことのないポイントでした。
相談を受けることはあれどマクロな問題意識になったことはなかったのです。
しかし今回の視点で集合意識レベルでの仏教的な影響が性的抑圧につながっているという推察が起きてきました。
 

勝手な憶測をするならそもそもここを跳ね除けようとしたエネルギーが廃仏毀釈につながったのかもしれません。
もしそうだとしたらここは統合の鍵とも言えるでしょう。
性という言葉に凝縮された全てを肯定的にとらえつつもいきすぎたエゴや欲を制するバランスです。
 

でも心身一如の健全な状態はそこにあるのだと感じます。

谷 孝祐
2021.7.30