デスるノート | 路傍のたり ひねもすのらくら記

路傍のたり ひねもすのらくら記

     
面倒臭がりにして、出不精。
そんな僕の、箏とコントラバスと猫と音楽、
日常の出来事を、
出鱈目に、ひねもすのたりのたり、と
のらりくらりと、自堕落に書きなぐる。
      
そんなブログ

ちょっと「死」について考えてみた。


とは言うものの、小難しい死の概念とか、哲学的なもの、そんなもんじゃ無くて、




理想の死に方、とか、


男らしい死に様、とか、


苦しまない死、とか、


家族に看取られながら、とか、





そんなもん?とも違う。



 



兎に角、おいらの希望する死に方、くたばり方、消え去り方、の理想的な現象。
 

死んだら?死んだ時?瞬間?その後の、おいらの行く末。


   


それは、




ヴァンパイアが、吸血鬼が、太陽光を浴びたり銀の銃弾で打たれたり、胸に杭を打たれたり、して
呆気なく体から煙を出して灰になり、粉微塵で風に飛ばされる様な、


そんな感じで、数秒で跡形もなく、呆気なく塵芥みたいに、軽く儚く無意味に消え去りたい。





取り敢えず、死亡証明とか、通夜だ葬儀だ焼却だ埋葬だとか要らぬ。そうすれば誰にも迷惑かけないし。 



その際、別段死後には誰の記憶にも残らなくてもいい。



勿論、葬儀なんぞは不用。


墓?入らない入らない。



灰になり風に飛ばされて、勝手に散骨になり、路傍の電柱に吹き溜まり、犬にオシッコかけられて。


運?がよければ風にのり、海やら山やらに辿り着ければ、散骨葬の体裁も保てよう。



そんなんでいいや。



勿論、

電柱に献花?要らない要らない。











そんなんが、おいらのくたばり方の理想論。







ただし死ぬ迄は生きている訳で、敢えて生への固執を公言するならば、



「ウチの猫坊主の先には、おいら死ねん」




生への固執かこれ?まあいいか。


兎に角、先には死ねん。








路傍のたり記。