(細川ガラシャ ~その4~辞世の句)
慶長五年(1600年)関ケ原の戦いが始まろうとしていた
徳川家康は奥羽の上杉景勝の挙兵に対して進軍し、忠興も追って馳
石田三成は上杉征伐軍に加わった諸侯の妻子を人質にとる策に出た
ガラシャはこれを拒み応じず、留守居役の小笠原秀清に命じる
「自ら城内(大坂城)に取こめられたら、殿(忠興)の御心も立て
七月十七日未の刻(午後二時頃)、五百の軍勢が細川家を取り囲む
「我、豊臣家の恩顧に叛くは出来ない。敵入るとも戦うのではない
ガラシャは静かに最後の支度をする。
小笠原秀清は隣室に入る。「近く参れ」とガラシャは命ずるが、秀
ガラシャは自ら敷居近く身をすすめる。秀清は隣室から長刀を伸ば
秀清はその最後を見届けると、邸に火をかけ、切腹する。
※「細川忠興夫人」 行待 廸著 /三丹印刷より引用しています。なお、最後の場面については諸説
参考:ガラシャ最後の地 大阪 細川家跡 https://tabi2deru.com/osaka-ec
「散りぬべき時を知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」 (細川ガラシャ 辞世の句)
この句は、関ケ原の戦いにおいても、後世においても多くの人の心
この句の原点は聖書にあるとのこと。
「天の下のすべての営みに時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」
「聖書」伝道者の書3・1、2)
ガラシャの辞世の句には、「人は”はかない””存在だけど、時を
※「宣教師フロイスが記した明智光秀と細川ガラシャ」 守部喜雅著 /いのちのことば社 より
では、なぜそれほどの”潔さ””を持つことができたのでしょうか
「私は先年、父光秀伏誅のおり、自害を勧められたが、与一郎(忠
ガラシャの潔さとは、母親として我が子のことを思う気持ちであっ
忠興には側室もいたので、忠隆は本能寺の変を起こした光秀の子孫
やがて、関ケ原の戦いが始まろうとする。細川家は家康にさしたる
自分の死によって、我が子忠隆の立場が家康の時代によくなること
忠隆は、光秀が宮津で”松八千年のさなえ”と連歌に詠んだのです
現在、この句の「散りぬるべき時」は転じて、死ぬことではなく、
辞める時(止める時)は、潔さが肝心ということが、この辞世の句
この句の力で、今まで仕事や生活を潔くやめて、丹後にIターン、
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