(細川ガラシャ ~その3~味土野)
天正十年(1582年)六月二日 本能寺の変が起きる。
十三日 父光秀、坂本城に逃げる途中で殺される
十五日 坂本城にて一族郎党自刃、城を焼く。
細川家の家臣は、たま(ガラシャ)に自刃を勧める。
たまは家臣に言い切る。
「夫の命待たで、三従の戒めに反するは不可。むしろ敵を待ちて死
後日、剃髪した忠興はたまの前に現れ、たまに言った。
「御身には罪はないが、御身の父は大逆を行った。我父子、かつて
御身の如き逆賊の子と室を同じうしていることは出来ない。」
そして、たまは丹後の山中、味土野で暮らすことになった。
※「細川忠興夫人」 行待 廸著 /三丹印刷 より引用しています。
後世、「ガラシャの味土野幽閉」と伝わる。たまはその後キリスト
歴史作家の永井路子さんの解説では、
「この三戸野(味土野))は丹後半島のほぼ中央、山また山に囲ま
私も数度取材に出かけているが、三月末に訪れるたときは雪が深く
お玉はこの地で二度の冬を過ごす。生まれてはじめての孤独、絶望
はじめはその運命を呪いもしたであろう。」
※「細川ガラシャ展 寄稿文」 永井 路子著 /毎日新聞社より引用しています。
この味土野という地、標高400mの分水嶺にあります。山に囲ま
近くに金剛童子山があり、昔は修験者が往来があったという。
明治の頃は40戸あり、近くの集落では最大であった。整地された
たまが暮らしていたところに、現在石碑が立っています。
崖に面していて、まわりに矢竹の垣が今もあり、ここが要塞であっ
たまは一人で暮らしていたのでなく、清原いとなど侍女も一緒で、
また、味土野で疫病が流行し死亡者が多くいた、たま深く憂慮し、
「いかでかは 御裳濯川の流れ汲む 人にたたらむ 疫れいの神」 :御裳濯川(みもすそ)の流れ汲む人:真面目な態度の人
との和歌を書いて、村人の門戸に貼らしめたたのこと。
村民の交流もあったのではないかと思われる。
私自身、味土野から出てきた人と家族ぐるみの交流があるが、純朴
たまも、楽しく味土野の村民と楽しく暮らしていたのでないかと思
現在、味土野はIターンで人は新たに人が入り始めています。
田舎暮らしを希望する人にとっては、京丹後市の街中は中途半端の
京丹後市は味土野を”ガラシャの隠棲地”と呼んでいます。幽閉地
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、たまが子供ころ、越前での
たまは都会育ちで、苦労しらずのお姫さまではないはずです。また
味土野の話は、光秀の死後になるのでドラマで出てくるか微妙なの
まずは、丹後人はここは決して幽閉地と思わないことが大事かもし
丹後は、楽しく心豊かに隠棲できる場所なんです。(友木)
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